神は近づく【2009年11月29日】

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待降節第一礼拝 礼拝説教「神は近づく」
ルカによる福音書19章28節〜40節  牧師  斎藤 衛


教会の一年の暦の始まりを共に持つことができ感謝します。

その一等初めのみ言葉、第一日課にこうありました。

「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。」

エレミヤに与えられた主の言葉です。

しかし、この時エレミヤは獄舎に拘留されていました。牢獄に入れられている身に、この言葉が与えられた。

つまり、現実は恵みとは程遠く、その苦難の中に、しかしこの約束を聴くわけです。

約束が果たされる日まで、一足飛びだということではないのです。その恵みの日の前には苦難があった。

その苦難を一歩一歩たどることで、やがて、真の恵みの約束に出会うことになるのです。

それを知りますと、今、クリスマスを前にしてその喜びを待ちわびる日々を迎えていますが、そこで、

クリスマスの光を光として受けるために、この深い闇にまだ身を置いて、

ちゃんと向き合うということが求められているのだなと知らされます。

クリスマスを前にして、どれほど私たちの生活に闇があるかをたどることは有益ではないでしょうか。

待降節はその日々です。

すなわち、イエスさまの誕生を待つこの時に、十字架へ向かってゆくイエスさまを聴くわけです。

とぼとぼと死へ向かっていかれる。苦難のさなかにおられる主の姿を受け止める今日なのです。

クリスマスを目前に、新しい救いの誕生だけを喜びがちな私たちに、

ブレーキとして苦難の姿が示されているのではないでしょうか。

イエスさまが全てを失ってゆく道のりに重ねて、新しい救い、

神さまの近づきを導きだしなさいと言われているのです。

主イエスはロバに乗ることを決めました。馬ではなく、ろばです。

力ではなく弱さを選ばれた。

このみすぼらしさ、弱さは私たち人間の思いを確かに裏切っています。

がしかし、主はそれを選ばれたことを心に刻まねばならない。

人々は歓呼の声を上げました。「主の名によってこられる方に、祝福があるように。」と声は上げています。

パレードが好き。恵みの約束の日がこうやって来た、と、すぐにも手に入れたいから。

しかし、それが本当に約束の救いを捉えていたのかと言うと疑問です。

自分たちの思いとは違うことが分かると、あっさり手のひらを返したように忌々しさに覆われます。

歓呼の声は、ほどなく、十字架につけろの大合唱になるのです。

だが、イエスさまの、この救いの約束に対する態度、父なる神への信頼は違った。

安易に恵みの日を得たいとは思われなかった。与えられた苦難にしっかりと直面して逃げなかったのです。

その忍耐がロバに象徴されています。

歓声の中、終始無言であるイエスさまです。

イエスさまのこの沈黙が私たちに問いかけ浮かび上がらせるものとは何でしょうか。

それは、私たちがすぐにも解決を求め、すぐにもハッピーを求めたがるということがあるでしょう。

そのうえで、そうやって手っ取り早く恵みを得たいと思う心がいかに浅薄かを、

この、ロバに乗っておられるイエス様は、教えてくれます。

救いというのは私たちのこの状況を大きな力で変えてくれることかと私たちは思います。

思いますが、イエスさまのこのロバに乗った有様を見るなら、そうではないのかもしれないと立ち止まるのです。

そうではなくて、日々の痛みや苦しみを抱えなさい。

つまり、颯爽と解決をもたらすかと思える馬を期待するのではなく、重荷を抱えつつ、

しかし一日一日を歩むロバのように日々を歩めと主が言っておられるのだろうか。

そして実は、そこにこそ、新しい真の希望に出会う場所があるとおっしゃっているのではなかろうか。

目の前に与えられている困難とか壁に向き合ってごらんなさい。

その向き合う中から、何にもまして新しい希望に出会ってゆく場所があるのだと、

み言葉は私たちに告げたいのではないでしょうか。

重荷の中で希望を受け止めるあなたになったなら、その果てには現実も変わることだ。

主の沈黙の前に、私たちの描く理想や、力や、可能性は道を閉ざされてゆきます。

そして残ったのは、ロバに乗ったイエスさまの静けさ、そしてイエスさまの近づきです。

こうやって神さまは近づいてこられるのか。

クリスマスを迎えるというのは、私たちに与えられている困難をどう受け取るか、

それを新たな光で抱えることができる者になってゆくということです。

救い主がお生まれだ、その救いとはこれまで自分が捕らわれていた見方が変えられてゆくことです。

なにせ、「悲しむ人々は幸いである」ルカでは、「今、泣いている人は幸いである」とおっしゃった方なのです。

なぜ幸いですか。

悲しいことは嫌なことだ、とばかり思っていた私たちに、そう思いがちな私たちに、

涙に恵みがあると、思いを変えられてゆく道を主はもたらしてくださいました。

痛みを受け取る道に、神が近づくことを知ることができるから。だから幸いだと。

喜びだけが人生ではありません。

それは集まった私たち一人ひとりが、

それぞれの人生の道のりの中で困難を経てこられたから受け止められると思います。

ロバに乗られたイエスさまの静けさに私たちが心寄せるなら、

さまざまな困難に忍耐するということは、

喜びを求め、しかし得られず落胆するような私たちの姿をはるかに超えて、

本当に大事なことはここにあると教えて下さっている。

ロバのみすぼらしさは捨てたものではない。いや、この謙遜こそが力だ。

「泣き叫べ、主の日が近づく」イザヤ13…6

「泣き叫べ、主の日が近づく」。圧倒的なみ言葉の力です。

泣き叫べ、主の日が近づく、泣き叫ぶことにこそ神が近づいてこられるというのです。

私たちは泣き叫ぶなんて経験したくない。平穏な人生を求めます。

しかし聖書はそんな取り繕った願いをばっさり切って、真実の人生に迫ってきます。

泣き叫べ、泣き叫んでいい。困っていい。

弱くもあれ、頼め、願え、声をあげろ。神は近づく。

イエスさまがこうやってロバに乗って、忍耐し、弱さをさらけ出し、とぼとぼと歩み行かれる十字架への道。

それがやがて、神は愛をもって認められ、復活を与えて下さいました。

神さまは私たちのつらさとか、悲しみとか、否定的なところに近づいてくださることを今日は知ってまいりたい。

私たちの喜びのところにも主はおられて見守っておられるでしょうが、

そのことよりも、私たちのしんどいところに神が近づき引き寄せて下さることを

待降節の第一礼拝で互いに知ってまいりたい。

私たちの痛みにこそ神は近づいてくださる。

そこで私たちは自分の弱いところにキリストに住んでいただくのです。

とぼとぼと歩まれたイエスさまだからこそ、私たちのとぼとぼとした弱さやしんどさにも住んで下さる。

そういう御子主イエスキリスト救い主を求めて、そのことのために備えて、この待降節を過ごすのです。

私たちの弱いところにイエスさまに住んでいただくと、実はそこから道が開けてゆく。

復活が示すように。

だから私たちは弱くはないと言うのは違っています。

教会というのは、それぞれの破れを持ち寄って良いところ。

むしろ何も問題が無いという顔で来るところではないことを教えられます。

破れた時にこそ教会に集まり、み言葉を聞き御霊によって慰めを得るわけです。

それを仲間が受け止め互いに励まし合う、これが実の教会です。

だから厚く塗った壁で自分を覆う必要はない。

あのロバに乗ったイエスさまに自分自身を重ね合わせて待降節の日々を歩みましょう。

それを歩めば歩むほど、クリスマスの喜びは私たちに深いのです。