愛のパン【2009年8月19日】
聖霊降臨後第11主日礼拝 礼拝説教 「愛のパン」
マルコによる福音書6章34節〜44節 牧師 斎藤 衛
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、
飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
人々を解散させてください。
そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
これに対してイエスは、
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。
弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」
弟子たちは確かめて来て、言った。
「五つあります。それに魚が二匹です。」
そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、
パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
すべての人が食べて満腹した。
そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
パンを食べた人は男が五千人であった。
奇跡をどう受け止めたらよいのか、戸惑うことかもしれません。
そこで、今日のパンの出来事を理解するということがいったいどういうことなのか、
それを示すところが、少し先の個所にありますのでまず読みましょう。
マルコ6章45節〜52節。
ここで描かれている光景は、パンの出来事のあと、
湖に船を出した弟子たちが思いがけず逆風にさらされたことでした。
弟子たちが大いにこぎ悩んでいると、
なんと、主イエスがこちらへ向かって水の上を歩いてこられる。
それを見て弟子たちは恐ろしくて叫びました。
幽霊だと思ったとある。
おびえたとある。
そこで主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
とおっしゃった。
イエスさまが船に乗ると風が鎮まった。
この事実に弟子たちは驚いたと報告しています。
そして、この弟子たちのありさまが、すなわちパンのことを理解していないのだと。
つまり、パンのことを理解していたら、弟子たちはこういう態度は取らなかった。
つまり恐れたりおびえたり。
そこから、このパンの出来事を理解するというのは、
逆風に苦労することはあるものの、
主の助けを願い、イエスさまが現れたら、
こうまでして助けて下さる方なのだと感謝し、
つまり、神の愛への深い信頼がそこに息づいているということではないでしょうか。
パンの出来事で示されているのは、大丈夫なんだという主の声を聞くことなのです。
思えば、食べるということは人間の基本でしょう。
根源的な行為。
そこに神の愛が示されたということですから、もう怖いものはないではないか、
この主イエスにゆるぎない信頼を置いてよいのだ、
というメッセージが今日の給食の出来事に込められているのです。
まことの養い主、まことのいのちのありかはどこなのか、それが明確にされます。
さて、群衆は多くの問題を抱えていました。
それは貧しさ、病、それぞれの人生の労苦を背負いながら、途方にくれていた。
帰り行く場所がないことにその苦境が端的に表れています。
飼い主のいない羊のような有様です。
信じるものを持たない人間の悲惨さというのをお分かりでしょうか。
人にとってもっとも憐れなのは神を見失っていることです。
飼い主がいないこと。
これは一見すると気楽で自由と思うかもしれません。
飼い主がいるということはうっとうしいと。
ですがそれは決して自由ということではないのです。
糸の切れた凧のように、さまよって木にひっかかるか壊れ去ってゆく、
そういう悲惨さなのです。
信じる方を持たない存在がどれほどに心細く悲惨であるかを考えたい。
そもそも人間が生来そのままであるなら、悲惨な存在だと知る必要があります。
この人間のあからさまな姿をご覧になってイエスさまは、深く憐れまれた。
はらわた千切れる共感をもって、そして教えたと書かれています。
何を教えたのか。
つまり神の国は来ているということです。
神の愛を信頼して良いのだということです。
だから大丈夫なんだ。
赦された者として信じて生きて行きなさい。
神はあなたを愛しているということを教えた。
世に多くの養いをもたらすものはあるでしょう。
金か、楽しみか、食べ物か。
そしてこれらを得たとか失ったとかで一喜一憂するのが私たち人間。
だが、これらのものをどれほど得ようと、
いっこう人間の心の奥深くにある不安は消えないのです。
人間を真に満ちたらせるのは「愛のパン」であるからです。
そして今、この方はそれを持ってきてくださった。
そこで、次の奇蹟が起こるのです。
さて、今日の個所に二つの生き方が示されます。
まず人間の方法。
弟子たちが申し出るわけです。
「人々を解散させてください。
そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」
もっともな言い分です。
自分の責任でなんとかするという人間の方法。
そしてもしイエスさまが人間の方法を取られるなら、
さしずめここで、「給付金」でも配ったのではないでしょうか。
しかし、もうひとつ、神のやり方、神の方法があります。
「あなたがたが彼等に食べ物を与えなさい」
弟子がお金を持っていないのは先刻承知。
弟子たちも不可能を真っ先に訴えます。
実際、彼等の手持ちはパン五つと魚二匹だけでした。
いかにも、私たちは持っていない者です。
だから持っているもので勝負する人間の方法は行き詰まります。
自分にはできないということだけが、心を支配し勇気をなくさせます。
しかしここで主は、所有するということを軸にした生き方から、
与えるということを軸にした神を信じる生き方へとジャンプするよう、
呼び出しておられるのです。
差し出されたパン五つと魚が二匹。
主はその少ないものをお用いになった。
天の父に祈り祝福した時、するとそれは増えるのですね。
神の方法に委ねたとき、貧しく、少ししかないものが、人に満足を与えるのです。
人には理解できないかもしれないが、これが神の愛の力です。
私たちの目には不可能と思えることも、神の国は力として実現させるのです。
神の愛のパンは、どのような時にもあなたがたを養おうとされる。
どうしようもない状況などない。
信じよ。
私たちの思いの中には、足らないことばかりが思いつくかもしれません。
自分自身についても、自分を取り巻く状況についても。
しかし主はいつも私たちが思い患い、
壁に苦しんでいるその先に恵みを備えつつ招いてくださるのです。
「ヤーウェ・イルエ」主は備えてくださる。
アブラハムのイサク奉献の際に記された信仰告白が思い起こされます。
危機の状況でアブラハムは神の愛の発見をしたのです。
以来、主の民は心に刻みました。
「主の山に備えあり」と。
もっと信頼して踏み出しなさい、
私に頼りなさいと主イエスの父なる神は告げるのです。
主が与えるパンは愛のパン、そして兄弟姉妹が分かち合うパンです。
そのパンと魚を食べ、五千人以上の人々が心から満足し、
12のかごにはパンと魚があふれたと聖書は報告します。
私たちが思っている以上に神さまは近づいてくださっているということです。
イエスさまが示してくださる神は、恐れ多く、
はるか遠くに鎮座ましましている神ではありません。
私たちが満ち足りるよう心配り、わが身を十字架につけてまで、
人間を赦そうとされる態度で近づいて下さっているのです。
主イエスが私たちのところに神の愛の命を携えて来てくださったのだから、
もっと神の愛を頼りにしなさいと主は再三伝えようとされます。
不可能をいつまでも抱え込んでいることはない。
主にゆだねていいのです。
そして私たちがなすべきことの「鍵」は信頼と分かち合いです。
私たちは「あなたが彼らに食べ物を与えなさい」といわれているのです。
主の養いに感謝して、この教会の食卓にいろいろな方を招こうではありませんか。
人はみな根源で飢え乾いているのです。
弟子たちはパンの奇跡の一部始終を体験した。
群集は知らなかったのです。
結局、群集は手渡されたパンと魚で満たされたのですが、
それがどこから用意されたのかは知らない。
しかし弟子はそれを見ていた。
そして私たちもそのいきさつを今聞いている。
そう、現実の飢えが世界にはあります。
ただしそれは、神から与えられているものを分かち合っていない
人の罪がさせるのではないでしょうか。
本当は神はすべての者を養ってくださっている。
人は主の愛のパンでどれほどに満ち足りることでしょうか。
今日もこれから聖餐の恵みにあずかります。
私はパンを皆さんの手の平に置きながら、
イエスさまの愛を手渡す想いでいつもおります。
この愛のパンを理解する者は、たとえば人生の逆風が吹くような時があっても、
養って下さる主を信じて、ひるまず、おそれず、与えられた人生を歩めるのです。
これからいただく主の体と尊い血とは、主の愛そのものだからです。
すべてのものを超えて私たちを満足させる命であることをかみしめましょう。
この命から私たちはこの世に派遣されるのです。