私の小ささ、神の大きさ【2010年1月24日】

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  顕現節第四主日礼拝 礼拝説教「私の小ささ、神の大きさ」

 ルカによる福音書5章1節~11節  説教者 斎藤衛牧師 

 

 

 

 

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、

群衆がその周りに押し寄せて来た。

イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。

漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、

岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。

そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。

しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。

彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。

すると、イエスはシモンに言われた。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

人間の一大転換点が語られます。

生き方が変わるということです。

人生には、ペトロのようなこういう大転換点が来るものなのですね。

皆さんもこうやって教会に集われるわけですから、少なからず、

それ以前の自分とそれ以降の自分を分ける何らかのことがあったと思います。

その転換とは、それは神さまの大きさを知り、自分の小ささを知るということ。

神を知り、自分を知ったことです。

私たちの人生が神さまの恵みの御手のうちにあるということがつくづくと分かったというそういう出来事、

体験、それが私たちの大きな転換点となるのです。

ペトロはそれを体験しました。

人は神から逃げたり、神を否定したりして生きます。

それは人生を頭で考え、自分で生きようとするからです。

だがひとたび、人が心で神さまの御心と御手を感じ取る時、

そこに生き方が変わるという事態が生まれます。

すなわち、生きることが喜びとなるのです。

その大転換が、今日告げられます。

 

神さまの言葉を聞こうと、そういう思いを人は抱きます。

当時、その思いを抱いた人は多かったと思われます。

それだけ現実の生活が苦しかったのです。

ローマに支配され、圧迫され苦しい生活を強いられていた。

そういう人々がイエスさまのところに押し寄せていました。

心の渇きを抱く人間のなんと多いことか、そしてイエスさまの言葉の一つ一つが

なんと人間の心を潤すことか。

一方、漁師たちは船から上がって網を洗っていました。

仕事ですから、それをするのは当然なことでしょう。

漁をしたあとの一連の段取りがあった。

ですが、御言葉に殺到する群衆に比べると、

何か妙に冷静とお感じにならないでしょうか。

すぐそばで、人々が熱狂的にイエスさまの言葉を聞こうとしている。

それに比べて、淡々と仕事をこなしていた。

確かに生活とはそういうものです。けれど、少し気になります。

神の言葉の恵みを横目にしながら、しかし自分を離れられないでいる人間の姿なのでしょうか。

教会はここにあるけれど世界はちがう理屈で動いているということでしょうか。

かつては私たちもこの理屈の中で生きていました。

しかし今はこうやって、御言葉のもとに集められています。

不思議な恵みです。

だがここに、イエスさまという方が群衆もさることながら、

その横にいて仕事をしているペトロたちのことをも気にかけていたことが描かれます。

船を貸してもらえないかと頼まれた。

そしてペトロを仕事から離れさせました。

しかも一番近くで神の言葉を聴かせる状況を創られた。心憎いばかり。

こういう神さまの策略が、皆さんにもありませんでしたか。

導かれて今、皆さんがここにあるということは、そういう神の御手が一つ一つ、

私たちの人生を導いて下さったからなのです。

とはいえ、ペトロの頭の中は、どんな思いであったでしょうか。

頼まれたから船は出したものの、なぜ船を出したか。

つい先日、シモン・ペトロのしゅうとめが高熱を出した時イエスさまが癒して下さった。

熱を叱りつけて。

そんな恩義がありますから、むげに断ることもできなかったのか。

この心境は想像です。ペトロが喜んで船を出したということも考えられます。

いずれにしても、神は、こうやって人に近づかれる。

人のさまざまな思いを用いながら主は私たちに近づいて下さるのです。

船で、一番近くでイエスさまの言葉を聴きながら、ペトロは何を考えていたでしょうか。

いい話だなあ、とか、それは本当だろうかとか、いろいろな感想を持ったでしょう。

だが、話が終われば、それで終わり。また、仕事、仕事。そうだと思っていた。

人生とはそういうものだと。だが、終わりではなかったのです。

話は終わった。だがそれは終りではなく、これは始まりだった。

主はおかしなことを命じます。

「沖にこぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(四節)

今まで気持よく話に感心していた、あるいは逆に、

ペトロの考えが相変わらず仕事のことでいっぱいだったかもしれない。

今夜の仕事の準備、船の修理代、従業員の給料、

そんな取りとめもないところにペトロの意識があったからか、

イエスさまは話で終わらせるのではなく、

さらにペトロの人生に切り込んできます。

しかも、ペトロに最も受け入れられない方法でイエスさまは迫ってくる。

「沖にこぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」

ひと晩中、懸命に働いても魚は取れなかった。

今は陸の安心な家で休みたい。

沖に出るということは、労力を費やし、身の危険を抱えること。

ましてや、昼のこんな時間に魚が取れるはずがない。

ベテラン漁師を馬鹿にするにもほどがある。

いろいろな考え、反論がペトロの心に渦巻いたことでしょう。いちいちがもっともなのです。

人間の理屈では。

人間の考えでは、今、漁に出るということは100パーセントないことです。

だが、神は「沖にこぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃる。

神という方は、私たち人間の考えとは違うところから、ものをおっしゃる。

私たちにとって、一番受け入れられないこと、

しかもそれは往々にして私たちが一番こだわっていることでもあります。

そこに、問題を投げかけてこられる。

一番こだわるところ、大切にしているところを、砕こうとされるのですね。

これが神さまのやり方。

厳しいですね。厳しいですが、ここのところがなんとかならなければ、

あなたはなんともならない。

そこを温存しながら、神さまアーメンと言っても、

あなたのクリスチャンの人生は何ももたらさない。

主の言葉に案の定、弟子たちは反論します。

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」(五節)

そしておそらく私たちも反論します。

だが、それを捨てろ、それが砕かれよと主は迫るのです。

だから、ペトロの出来事を聴いて、私たちは考え方を変えたほうがよいかもしれない。

私たちにとって受け入れ難いことが強いられた時、

それは神さまからの大事なサインなのかもしれません。

皆さんにとって、えっ、そんなことを、と思わせることの中に、

神は豊かな恵みを備えておられるのです。

それにしても、シモンがこの時、どうして「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言えたのかです。

これが信仰なのでしょうか。

そう簡単とも思えません。

そこで、ギリシャ語からの直訳でみますと、「しかし、あなたの言葉によって、網を降ろしましょう」です。

あるいは、あなたの言葉に基づいて網を降ろしましょう。

網を降ろす根拠・理由はあなたの言葉です、というわけです。

まあ、あなたが言うから降ろします、ということです。

となると、自分は、やはり、同意できているわけではないのです。

つまり、半信半疑かあるいは1信9疑くらいのところで、ペトロは沖へこぎ出した。

結果は先ほど読んだ通りです。これまで一度も体験したことのない大漁です。

網が破れそう。尋常ではありません。ペトロたちは度肝を抜かれたのです。

これは、ペトロでなくとも考えてしまいますね。

あなたがおっしゃるからやってみましょうと、仕方なく網を投げた。

ところが、自分が想像だにしなかった恵みの多さだった。

何を考えたか。自分の小ささです。

自分の所からしか発想せず、自分の経験を超えることもできない。

しかも考えられることの貧しさ、小ささ。

比べて自分の知らない世界、自分の与り知らぬ世界がどれほど広くあるのだろうか。

しかもそれが恵みの世界だとは。

ここでペトロが自分の罪を告白しました。

ここにペトロの大いなる信仰のセンスがあります。

うわ、大漁だ、先生、漁の仕方を一から教えて下さい、とは願わなかった。

ここで自分の罪を告白しているのです。

魚とは何でしょうか。はじめ私は魚を恵みと思いました。

主イエスの言葉に従うなら、これほどにも恵みが与えられるということかと。

ペトロの驚きは恵みへの驚きかと。

しかし、こう示されたのです。魚の一つ一つは「罪」だ。

ペトロは魚が欲しかった。

当然そうでしょう。漁を生業にしていたのです。

少しでも多く獲れたならどれほど楽に生きられることかと思っていたでしょう。

だから、どうか魚をたくさん下さい。どうかお金をたくさんください。

だがペトロは、驚きと共に、自分の小ささと共に、魚の一匹一匹に自分の欲、罪を見たのです。

なんという大きな罪を自分は持っていたのだろうか。

そんなに欲しいのか、ではこれを持っていけと神は大盤振る舞いなさった。

それを目の当たりにしたとき、ペトロは自分の罪深さを思ったのです。

ある人はやったー、ラッキーと喜んだでしょう。

しかしペトロはそうではなかった。

なんということを自分は望んでいたのだろうか、

自分のことしか考えない願いを私は何より大事なことだと思っていた。

罪ですよ、それは。だから、一見不思議な罪の告白をペトロはなしたのです。

自分ではなく、もっと広いみ手によっていかに自分が支えられていたことかと知った。

ペトロは神さまのご臨在を感じていたのです。

つくづく自分の罪も知りました。イエスさま離れて下さい。

こんな罪深い自分はほかにありません。もう魚は結構です。

自分の罪深さがほとほと分かりました。

聖なる方への恐れがペトロにもヤコブとヨハネにも襲った。

しかし主イエスは「恐れることはない。」(10節)とおっしゃった。

そして「人間をとる漁師になる」(10節)と召してくださった。

人間をとる漁師というのは「人間を生け捕りにする」ということです。

漁師であるペトロにとって最もピンとくる言い方です。

罪をつくづくと知った者こそが、神の光を光として抱くことができます。

ペトロが自分の罪に目を向けたことがなくては、

神の光を光として受け取ることができなかったのです。

ですから罪は必要だったのです。

罪の神秘であります。

罪深い自分を知れば知るほど、神の恵みの奥深さを知ることができる。

だからそれを知った者こそが、人を生け捕りにすることができると、

新しい役割をペトロに与えたのです。

神の光を光として抱きつつ生きなさい。

その光に生きることが、ペトロの新しい役割です。

光に生きる者だけが、光に生きる人を生みだします。

それが人間を生け捕りにするということ。

今まで網で魚を取っていましたが、今度は神のみ言葉で、人を光に生かすのだ。

ペトロはそう言われました。そして船を陸に上げ、すべてを捨ててイエスさまに従った。

もういいんでしょうね、魚は。魚とか、お金とか、ペトロにとってそれは関係なくなったのでしょう。

光に生きるという恵みを知ったのですから。

私たちもこの道に招かれているのですよ。

もういい、この世で手に入れられることは、と気づくのです。

日々の生活で相変わらず足らないことに気を落とすこともあります。

生活の一喜一憂は、日々にあります。

しかし神の愛は広く、大きく、決して私を見捨てないという信頼があるとき、

人生に静かなる大いなる喜びが与えられます。

パウロもそういう経験をしている。

「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、

人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、

そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、

それによって満たされるように。」(エフェソ三章18~19節)

と書き送っています。人生ここに尽きる。

破れんほどの魚、どころではない、

キリストは、あなたを生かそうとあの十字架の苦しみにまで行かれたのです。

ペトロに見せた大量の魚のように、

私にも何億円と目の前にお金を積んで下さいと神さまに頼みたくなるかもしれません。

そうしたら、そのお金はいりませんと言えると。

そんな反論が私たちの思いに浮かびますが、違う。

あなたを生かそうと、あの十字架の苦しみにまで主は行かれたのです。

何億円積むことの比ではない、その思いを抱えてイエスさまは十字架に上がった。

このキリストの愛を知ったなら、

あなたが人生にこだわっていたことのなんと小さなことか、

そう思われませんか。そして、なんとありがたいことか。

私の小ささ、神の大きさを知って、さあここから生きてゆきなさい。

私たちがこの光を伝えることで、伝える私たちも恵みを受けます。

沖にこぎ出して網を下ろし、漁をしなさいと言われています。

皆さんの沖とは何ですか、網を下ろすとは何ですか、

漁をするとはどういうことでしょうか。

大いなる光の中で、私たちはそれを追い求めてまいりましょう。

ルカによる福音書5章1節〜11節  牧師  斎藤 衛