闇は光だ【2010年2月14日】

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変容主日礼拝 礼拝説教     「闇は光だ」

ルカによる福音書九章二八節~三六節     牧師  斎藤衛 

 

 この話をしてから八日ほどたったとき、

イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。

見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。

二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、

栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。

その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。

仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。

ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。

彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。

すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 

 

今日は、変容主日です。そして奇しくもバレンタインデーですね。

以前は愛の告白として女性から男性へというのが通り相場でした。

そのうち義理チョコという言葉が流行ったり。でも最近は変わってきているそうですね。

先週キャロルが子どもメッセージで話してくれたように、

女性から女性へとか夫婦で互いにとか、ドイツでは男性から女性に花とワインとか。

つまり、義理チョコという言葉は消えて、

男性女性を問わず大切な人、愛する人にプレゼントする、そういうことになっているそうですよ。

すでにご用意されたでしょうか。

プレゼント、そこに真実がある時される方もする方もうれしいものですね。

特に日々の生活に疲れがあったり、うまくいかないことがあったりしますと、

もらった方としては、とってもうれしいものです。

変わり映えのしない日常が急に生き生きしたものに変貌します。

目に見えないものがそうさせる。

そして今日は、変容主日なのです。

イエスさまの顔の様子が変わり服も白くなって輝き出す。

初めのころ、これをどう聴いたらよいかわからなかったものです。

そういう箇所ですね。魔術的な世界の話か、あるいは子供だましのアニメのように聞こえないでもない。

変容の出来事はイエスさまからのプレゼントではないでしょうか。

もう一度、神さまの、そしてイエスさまの真意、御心、神の国の真実というものを弟子たちに届けようと、

霊の世界の一端を垣間見させてくださっている。

普段は見えない事柄ですが、この変容が与えられることによって、

神さまの真意を知ることができるのです。

真意という限り、聖書全体を表わしています。その意味でたいへん重要な出来事です。

それによって私たちの日常も変容してきます。

隠されていた真実を発見し、目覚めていることはなんと幸いでしょうか。

さて、弟子たちは、ひどく落ち込んでいたのです。

「この話をしてから八日ほどたったとき・・・」(28節)とあります。

この話とは、イエスさまの死についてのその話です。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、

三日目に復活することになっている。」(22節)

始まったイエスさまの宣教には奇跡が起こされ、慰め深い教えが語られ、

人々の日常に明るい光が差したかに見えました。

その見えてきた希望に冷や水をあびせかけるように、イエスさまはご自分の死を語られます。

やっぱり人生とはこういうものか。うまく行くかと思っても、じきに突き放される。

人生の大半がやはり失望と労苦に覆われているのかもしれない。

詩編はうたいます。「人生はため息のように消えうせます。人生の年つきは七十年ほどのものです。

健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。

またたく間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」(90編9..10節)

主イエスに従って行く人生もまた空しいものかと落胆の色を隠せなかったのでしょう。

弟子たちはこの八日間、死の宣告を受けた人物の家族のように、重い気持ちを抱きつつ、歩んでいた。

そこで変容なのです。この光に目覚めよと。

受難に隠された事柄があります。

たとえ十字架へ向かう道を歩もうとも、神の光はそこにあるということを何とか知らせたかった。

皆さんにとって大事な人が人生の危機にあるとしたら、助けたいでしょ。

そして、違う視点で人生を見られることとか、喜びを与える違う世界に触れさせたくなったり、

今、直面している闇が闇であるだけでなく、その闇には光があることを知らせたいでしょ。

特に、皆さんが同じような闇に覆われて同じような落胆をすでに経験し、

そこに隠されていた本当の恵みを体験している者でしたら、なおさらです。

闇は光だと伝えたいのではないですか。

これが変容の心です。闇は光だというのです。

イエスさまご自身もそこへ行く。そして弟子たちがやがて直面する闇は実は光なのだ。

ところがなかなか闇が光だとは思えないでいます。

だから、闇は決して勝利していないことをそれぞれの体験の中で知らないとならない。

昨日は竹の塚教会のある姉妹の葬式でした。

この一年間は私が責任教職ですので、前夜式・葬式とも責任を持ちました。

その姉妹はある音楽大学のピアノ教師。高校生の時からずっと奏楽者の一人として教会に奉仕された。

そして教会学校の校長を長くされていた。五七歳でした。朗らかで、パワフル。

前夜式は二七年間竹の塚を牧された北澤先生が説教されたのですが、

彼女が行くところ行くところ、賑やかになると言っておられました。

そして今、天国が賑やかになっていることでしょうと。

前夜式には二百人を超えて人々が集まりました。

子どもの教会を通して地域の子どもたちと長年つながっていましたから、

高校生や中学生が友達とあるいは一人で、あるいは母親とぞくぞくと来ました。

ある子は泣き、ある子は静かに一礼し、ある子はどうしてよいかわからず亡骸をちらっと見て帰ります。

彼ら若者の真実な心、とまどい、その悲しみと先生への感謝が手に取るように分かりました。

長年教会学校を一緒に担当してきた別の姉妹が翌日話してくれました。

その高校生の中に今学校にもなじめず

悪い友達の方に行かなければいいがと母親をハラハラさせている女の子がいました。

先生が亡くなったと聴いて母親と一緒にきて、後ろの方で泣きじゃくっていたのだと。

その姉妹は女の子が小学生だった当時のことを知っていますから、

泣きじゃくる女の子の背中をさすりながら、

教会に来てたころのこと覚えてる、と優しく声をかけ、するとウンとうなずくそうです。

また教会に来てみない、と言うとウンとうなずくんだそうです。

召された姉妹の死は闇としか見えないですが、しかしそれは闇ばかりではなく、光がこうやって輝いている。

これが福音のなせる変容です。

召された姉妹の死は闇ですが、しかし闇から光が輝き出て、ある少女の闇を照らし始めている。そう思いました。

竹の塚教会は大丈夫だと思いました。おこがましい言い方ですし余計なお世話で失礼ですが。

そして深く教えられました。教会ってこういうことだ。

私たちの教会がこういう優しさ、闇が光になっていく体験を重ねてゆく、そのことが大事だと思わせられました。

ただ明るい光を求めているだけでは本当のことが分かっていないのです。ペトロと同じです。

ペトロは今日、仮小屋を三つ建てましょうと言っている。自分でも自分が分からない。

光を求めるとそうなるのです。その前に、闇をしっかり抱いて、受け入れただろうか。

召された姉妹は朗らかで輝いていたというのは本当のことですが、

お連れ合いを早く亡くされて男の子二人を懸命に育てたというのも一方の事実です。

そして十年前四七歳で乳がん発病、そして闘病。そして五七歳の死。闇も深かったでしょう。

しかしその分、光は輝き出ていたのです。

本当の優しさ。闇を深く抱いて、受け入れて、そこに光が生まれてくるような、

そういう福音の心を私たちに教えてくれます。

イエスさまたちは御自身の最期について話していました。

この最期はもちろん十字架による命の終わりです。つまり死のこと。

しかしこの最期が栄光の中で語られているということが鍵です。

しかも最期という言葉は、エクソドス。

エジプト脱出がエクソドスと言われるように、この言葉はよりよい状態への出発という意味を持っています。

つまり、話されていたのは死でありながら、それは神の国への出発であるということです。

イエスさまの命は十字架で惨めに尽きるのではなく、天に生き続けるのです。

ここに十字架の悲惨をどう受けとめるかの鍵があります。

決して単なる終わりではない。そこから栄光への出発がある。

そして私たち自身の困難や死、その闇について捉える心を示しています。

私たちの目には、恐れ渦巻く道としか受け取れない道も、必ず主は恵みへと導いてくださる。

主のご受難は闇ではなく、光だ。

なぜなら父なる神は「闇から光が輝き出よ」(コリントⅡ4章6節)と告げてこの世界を創られたからです。

「光あれ」それが神の御心。

それぞれの生活にも、重荷として負っているものがあることでしょう。

しかしそれらは単に惨めに重いだけではなく、そこに恵みが隠されている。

なかなかそう思えない。しかしそれが福音の心を抱いて生きると言うことです。

この私たちの現実が神さまから与えられたことに、不満や戸惑い、恐れや拒否を持つかもしれませんが、

祈りのうちに天のお父さんとやりとりしていると、神さまの慈愛深い計らいというものに気づくことがあります。

そのとき、私たちの考えや力を超えて、あちらから来られる神の恵みのみ手に突如として目覚めます。

そのときがその人の変容です。

イエスさまのご変容の輝きを心に描いて生きる者は、ある覚悟と寛容が与えられます。

闇をも抱いて、そこに輝き出て、光に生きることができるのです。

四旬節の始まりを前にして、イエスさまは一緒に山を降り、私たちの現実を歩んでくださいます。

変容の体験を知っている者は、闇を恐れない者とされるのです。