闇から光が輝き出よ【2010年4月4日 復活祭礼拝】

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復活祭礼拝説教「闇から光が輝き出よ」

ルカによる福音書2章1節~12節  説教者 斎藤衛牧師 

 
 

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。

まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。

婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、

亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

  

人は毎日三万種類以上のことを考えながら生活しているそうです。あるキリスト教の月刊誌で目にしました。

しかもそのほとんどが心配ごと。

心当たりがあるのではないでしょうか。

さらには、その心配ごとのうち90%以上は実際には起こらないことだという報告もあるそうです。

つまり、取り越し苦労や空想の産物だというのです。

この生来の不安や心配が、神信頼を妨げるようです。

ある方に言わせると、だから聖書には365回「恐れるな」という表現があるとのこと。

(「恐れるな」は新共同訳では40回ですが、恐れるなという意味の言葉として範囲を広げて数えているものと思われます)

つまり毎日恐れるなという神の語りかけが必要ですし、

毎日神はこの恐れる私たちに向かって語りかけて下さっているということ。

つまり、私たち以上に私たちのことを思っている神がおられます。

さて、主のご復活を祝う日となりました。感謝します。

この復活は、そんな恐れや不安に取りつかれている私たち人間に対する神の究極の答え、究極の声だと言えます。

私たちが、どうして90%もの取り越し苦労に日々を費やしているかを考えると、

残りの10%は実際起こるからです。

事実起こることを1%でも知っているなら、残りの99%が起こらなくても私たちは不安に取りつかれます。

この1%に当たるもの、

つまり、ほかは起こらない可能性もありながら、これだけは絶対起こるということ、それが「死」ではないでしょうか。

これがある以上、日々をどう平安に過ごす工夫をしたところで、闇が覆い、心配事は尽きない。

それが人間。そこで愛の神は、人間を見据え、究極の光として、主のご復活という出来事を与えて下さった。

だが、それは、そう簡単に私たちの光とはならないのです。

今日、聖書に出てくる人間たち、彼らもそう簡単に闇が取り払われるわけではありませんでした。

彼らの事実とは、女たちは途方に暮れ、使徒たちはこれを、たわ言のように思い、信じなかった。

かろうじて、女たちはイエスさまの言葉を思い出したとあります。これが始まりのありのまま。

そして私たち人間のありのまま。

復活が恐れから解放させようとする神の答えだとしたなら、その始まりは、なんともかみ合わない事態でした。

死という究極の恐れから出エジプト、解放させたい神としては、この事態に何とももどかしい思いを持たれたことでしょう。

だが、これは、当然のことで、むしろ復活が人間の出来事ではないことを豊かに物語っています。

人間の感知しうる範囲はここまでなのです。復活は人間の出来事を越えて、神さまの出来事であるのです。

ですから、このかみ合わなさは当然と言えば当然です。

これをかみ合わせるのは、ただ一つ、信じるということです。

信じるということがあれば、神の憐れみ、神の答え、その慈しみ深い声が聞こえてきます。

信じるということが無ければ、「たわ言」と思うところにいつまでも留まるのです。

人間にとって、たわ言かと思えることが、しかし、神の究極の答えだったと言うことです。そのように聖書は描き出した。

どうして信じないのかと神は思っておられる。そして信じられた時、たわ言と思っていたことが光として輝き始めます。

人にはたわ言と思われるかもしれないが、自分にとっては支える光だ、ということを皆さんも持っていませんか。

最愛の夫を突然の交通事故で亡くした女性があるキリスト教雑誌(月刊カトリック生活)に手記を書いています。

無我夢中で葬儀を終え、とりつかれていたのは恐れだった。

あの家族は神様を信じて、教会学校でも熱心。そんな人になぜこんな不幸が起こったのか、神はいるのか、

という周りの人が不信がることへの恐れだった。

たぶんそれはご自身の中にあった恐れかもしれません。神信頼が揺らぐ闇。

内科医の夫と二人の子とおそらく平穏に楽しく暮らしておられたのでしょう。それがある日突然、事故を知らせる電話。

人生が一変しました。そして彼女を恐れが覆った。

ですが、葬儀を終えて四、五日たった時、不思議な体験があったというのです。

朝、いつものように祈っていた。祈り終わって廊下に出た時、

急に「声なき声」で彼女の心の奥から湧き上がるように夫の声を感じたのだそうです。

夫の声で妻の名が呼ばれ、「○○、君の言っていたことは本当だ。僕は今、大変なところに来ている、

光の中にいる。あの福音書に書いてあることは真実だ。

だから君はそのことを外に出て言って、人に伝えなければいけない。互いに愛し合いなさい。」と聞こえたと言います。

その声を聞いた時、これは自分で考えたことではないと分かったと書いています。

そして心の底から深い喜びがあふれてきた。

うれしくなって、「夫はすごくいいところにいる。神様の懐にいる。こうしてはいられない。」という気持ちになった。

以来、恐れがなくなったのだそうです。形が違うだけで、夫は今までよりももっとそばにいてくれると確信したと。

こういうことがあるんですね。

皆さんはこれをどう聴きますか。

ある一人の恐れに取りつかれていた人間が光を知った事実であろうと思いますが、

これを聴いて、聖書の男弟子たちのように、「たわ言」と思われるでしょうか。

私はたわ言とは思えず、主が彼女に対して復活の光を照らして下さったことだと受け止めました。

夫の声を通して主は復活の真実を告げて下さった。なんと憐れみ深い神でしょうか。

イエスさまは、このように、私たちそれぞれの人生に、復活の光を投げかけてくださっています。

それは、この方のような事実を通して、恐れから解放される道です。

闇から光が輝き出よという御心そのものです。

この闇が襲わなかったら、光の恵みの真実をも私たちは知ることはなかっただろう。

神が世界を創られる始まりのときに、初めにおっしゃったことばは「光あれ」(創世記1章3節)だと聖書は告げます。

それはこの世界に光があるようにと、また私たちの人生にも光があるようにという御心です。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24章5、6節)

キリストの復活は、生き返ったというのではなく新しい存在になったということです。そういう光の命に今生きておられる。

しかし同時に主は傷を持ったままの主として生きておられることが、この後告げられます。

復活の主が、死の闇にあったことは事実です。

つまり、私たちの希望とは、困難がなくなることではなく、困難の中に、実は新しい希望が動き出しているということを発見すること、

この目覚めを得るということです。闇が光だと知ることなのです。

だから、十字架の死は復活と切り離せない。復活は十字架と切り離せない。

闇は光と切り離せない。困難は希望と切り離せない。

死が力をふるう中で、キリストが新しい命の在りかとなったのです。

闇は決して闇だけではない。闇で終わらない。その闇をギュッと抱きしめてごらんなさい。

受け入れて、信じて、委ねてごらんなさい。そこに光が輝きだすから。

最後に、韓国での話を久しぶりにさせて下さい。

闇は光だ。これは韓国で体験した観想祈祷会の主要なテーマでした。十字架は何ですか。それは闇だ、しかし光だ。

ですが、これは指導したシスターが私たちに教えてくれたこと。

私にとってはたいへん魅力的ですが私自身のものになっていなかった。

ところで、十字架からイエスさまの亡骸を降ろす箇所が聖書にあります。アリマタヤのヨセフがそれを行ったと。

韓国での観想祈祷会のある日の指導で、そのヨセフになってイメージを描いてくれというものがありました。

その晩、指示に従って、祈り、聖書を読み、観想し、沈黙の中で、自分がヨセフになって聖書のイメージを耕しました。

十字架から亡骸を受け取る時、見上げれば顔面蒼白のイエスさま、

血のりがついたイエスさま、まさに闇の他はありません。

恐ろしかった。

受け取る時、慌て者の私は足を踏み外しました。

よろよろして腰を抜かした所にイエスさまの遺体が背後からかぶさって来た。

その重さと冷たさに、ひえーっと叫んで、怖くて怖くて、イエスさま助けて下さい。

何を思ったか、くるりと振り向くとイエス様の顔の大写し。一層怖くて無我夢中でギュッと抱きしめたのです。

かじりついた。すがったと言うか。すると、その抱いたイエス様が輝きだしたのです。

すーっと光の柱ができて天に届きました。

その時、もはや恐れはなかった。

私のたわ言を申してしまいました。

でもね。私はこのことがありましたから、

霊的にイエスさまの世界を受け止めるという入り口に立ったのではないかと思っています。

ですから、先ほどの夫の声を聞いた女性の言葉は、

確かにあっただろうと、一層真実なこととして私には受け止められました。

祈祷会での体験は、私にとっては闇をむしろ抱きしめなさいと言うメッセージとして受け止められるのです。

闇は光だと言う。

しかしそれは闇にあっても信じて受け入れて委ねた時、光が輝きだすと言うことだと、深く知らされたのです。

信じる人生を神は望んでおられます。

そして今日、洗礼式がありますが、新たに信じる人生に踏み出す姉妹が与えられています。

闇から光が輝き出よ、という主の御声をこのときにも聴く思いです。

姉妹の人生にも、そして全ての人の人生に、光あれと告げられる主のみ声を今日ここにさやかに聴き届けましょう。

主のご復活という、闇を突き抜ける光が示されました。

イエスの言葉を思い出しなさい。「三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(ルカ24章7節)