恵みにもとづく人生 【2009年9月24日】


聖霊降臨後第14主日礼拝 礼拝説教「恵みにもとづく人生」
マルコによる福音書7章24節〜30節  牧師  斎藤 衛


イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。

ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。

女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

イエスは言われた。

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。

子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

ところが、女は答えて言った。

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

そこで、イエスは言われた。

「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。

悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

本日の第1日課イザヤ書には、こういう言葉がありました。

「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」

砂漠に花が咲くものだろうか、と私たちの常識は思わせる。

だが、み言葉は私たちに「砂漠に花が咲く」ことを描かせます。

第2日課ヤコブ書では、冒頭から、

「試練をこの上ない喜びと思いなさい。」と説きます。

試練が喜びとなんて思えるのだろうか。

なぜ、そんなことができるのですか。

砂漠は砂漠だろうに。

試練は試練だろうに、

と思いがちな私たちの感覚を聖書は打ち破ろうとします。

砂漠に、

試練に、

そこに必ず恵みがあることを見出させようとしています。

私たちの目にこの世界がどんなふうに映ろうとも、

神さまの愛のご支配は始まっている、

そのことを知らせているのです。

私たちは、自分の人生を何にもとづいて捉えているでしょうか。

人それぞれの経験によってそれは違いを見せるかもしれません。

とてつもなく悲しい出来事が起こることがあります。

すると悲しみを基軸に人生を見るでしょうか。

日々の空しさを抱えれば、空しさで人生を捉えるか。

喜びで、あるいは怒りで、あるいは疑いで。

いろいろな色で人生を塗りこんでゆくかもしれませんが、

み言葉は、恵みを基軸に人生を生きなさいと招きます。

そして今日の女の答えを通して、

恵みにもとづく人生の喜びを生き抜けと励ますのです。

娘の病気、たいへん大きな困難です。

時が経てばやがて癒えるけがとは違って悪霊に取りつかれるという、

どうしていいのか解らないような病。

その壁がまずそびえます。

続いて、主とも信頼する方が拒否をなさったこと。

その、さらにそびえる壁。

これはかなりの困難度です。

だが私たちの人生にもこういうことが起こりうるのです。

神さまからも見放されたかというようなこと、

これも人生の事実。

私たちの日々は、ちょうど、

「子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われ、

「主よ」と答える、

その間のところあたりを生きている。

そういうことでしょう。

まず、女の態度から教えられるのは落胆しないということ。

私たちの人生には喜びも悲しみも。

願いがかなったこともあれば、適わなかった願いもあり、

思いがけない喜びがあったり、

逆に思いがけない重大な困難が襲ったこともあったかもしれないですね。

そんなとき私たちを支えたのは皆さんにとってなんでしょうか。

 コリント10章に「あなたがたを襲った試練で、

人間として、たえられないものはなかったはずです。

神は真実な方です。

あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、

試練と共に、それに耐えられるよう、

逃れる道をも備えていてくださいます。」

というパウロの言葉があります。

パウロは、これまでの伝道人生、その困難を振り返って、

そのたびごとにあった神さまの計らいを感じているのです。

そこで浮かび上がるのは、

神は真実な方です、という告白です。

困難を振り返ったとき、それはただ困難なだけではなく、

そこに逃れの道を備えてくださった神さまの真実な恵みを発見しているのです。

私たちにとって重要なのは、

神さまの拒否の中で、

どう生きるか、

ということです。

その拒否に隠されてすでに神さまは私たちを受けとっていてくださるという驚くべき事実。

拒否のその奥で私たちを肯定してくださっている、

この神さまの真実を見出すことです。 

信仰のぎりぎりの苦悩と、

その後ろから浮かび上がる計り知れない恵みとがある。

主は審きの中に秘められた深い恵みを私たちに手渡そうとされている。

わたしの好きな讃美歌、385番に

「神のみ恵みは海より深く、さばきのうちにも憐れみあふる。」

という歌詞があります。

どのような状況であっても、

神の恵み深さは息づいていると歌います。 

ですが正直そこには不安と希望との格闘があるでしょう。 

この女性もなんなく

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」

と答えているように見えますが、おそらくそうではないのです。

立派にたじろがずこの答えができたとみるなら、

この女性の信仰の姿勢はお手本にはなり得ても、

私たちにとって遠い存在となります。

もうひとつ踏み込むなら、

このシリアフェニキアの女も大いに不安を抱えていたのであろうということです。

不安を抱えつつ、しかし賭けた。 

この女性はふさわしくない自分を知っていました。

今日の出来事が繰り広げられるのは異教の地であり登場するのは異教の人であった。

つまりユダヤ教の伝統によるなら、

救われるはずのない場所であり、

救われるはずのない人なのです。

思えばそこに主イエスがいらしたことに、

すでに恵みが隠されているのですが、

それは彼女には分かりません。

おまけに、小犬にパンをあげるのは宜しくないと拒否されるに至っては、

どれほど不安が募ったか知れません。

だがここに、

不安と希望とは表裏一体だという不思議な事態をわたしたちは見抜くべきです。

彼女の中に不安が募れば募るほど、

希望にかける力が湧いてくるのです。 

ふさわしくないと思っている者ほど、

パンの恵みを知って、謙虚に粘り強く受ける者とされてゆきます。

ほんの小さなパンくずを喜んで恵みとして受けます。

恵みとは相手から受けることを知っているから恵みです。

自分の権利だと思っていたら恵みが分からない。 

子どもとして言い表されているイスラエルはどうでしょうか。

事実、パンを食べ散らかしているのです。

あろうことか、パンを放り投げ、捨てている。

つまり主イエスを十字架へと追いやった。

権利がある人は信じることをしないですね。

その必要がない。

安心して主張すればいいのです。

あるいは安心を守ればいい。

しかし救いにあずかるにふさわしくないと自分で思っている人は、

何ももたないまま自分を御前に差し出すしかなく、

そして願い信じるしかないのです。

ふさわしくない自分を知っている女性。

だからこそ恵みを知ることができた。

不安と希望の表裏一体を生き抜いた。

私たちが新しいことに挑戦する時も希望はもちろん抱くことでしょうが、

しかし同時に不安をも抱くはずです。

不安だから、新しいことに踏み込まないのか、

いや、不安を抱えているが、一歩踏み出すのだ。

そして踏み出さなければ分からないことがある。

踏み出してこそ見えてくることがある、

そう信じて踏み出すかどうかですね。

不安を抱えつつ恵みを信じて踏み出した女に、

信仰の真髄が表われ、恵みを獲得しました。

女は、神の力の中に自分を投げ入れます。

すると神が働かれる。

そういう真実な方。

不安は希望の裏返しです。

この神さまの拒否は私たちの人生が鍛えられ、

より確かな神への信頼へと向かうことのできる恵みなのだとこの際知りましょう。

不安と希望のはざまにいながら、

恵みに基づき踏み込んだなら、結果、娘は癒された。

そしてギリシャ人である女に救いがきました。

結果的に女はイエスさまの拒否を通して、

命の確かさをよりはっきりと抱くことができたのです。

神さまの心変わりは普通よろしくないことと受け取られますが、

いのちが生きるためになら神の真実は神自身の態度をも変えさせます。 

ここにイスラエルと異邦人の隔ての壁は崩されたのです。

救いがイスラエルだけの独占販売ではなくなったのです。

私たち異邦人にも願いが主イエスによって聞き入れられるという恵みが与えられました。 

私たちは救われるはずのない者達かもしれません。

けれど自分のそのままを神さまに差し出して、

不安の内にも心からの願いを言い表そうではありませんか。

恵みにもとづいた人生を歩むことです。

神はあなたに心動かす方なのだから。

私は信じます。

神のなさることを、

どんな時にも恵みとしてお受けするのが信仰です。

だから、落胆しないで。

砂漠に花は咲く。

恵みにもとづく人生であることを信じて、

この世界を生きましょう。