「求めなさい」[2013年8月4日]
聖霊降臨後第一一主日 礼拝説教「求めなさい」
ルカによる福音書 一一章一節~一三節 牧師 斎藤 衛
「求めなさい」との説教題を掲げました。
「求めよ、さらば、与えられん」(文語訳)。たいへん有名な御言葉です。
少し行き詰まると、もうだめかなあと弱気になったり、物事に投げやりになってしう私たちに、「求めなさい」と励ましてくださる。
まことに力ある御言葉です。
そして、説教題もその御言葉そのものを掲げたわけですが、そうしながらも、しかしよくよく思い巡らして、大切なのは後半だと気付かされました。
つまり、「求めなさい、そうすれば、与えられる。」の「与えられる」ということです。
同様に「探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
こう続くのですから、見つかる、開かれる、ということに重点があるということです。
私たちは御言葉に聴く時、それは私たちの行動や生き方に向けて告げられていると受け止めますから、求めなさいと聴けば、私たちは求めなければと思う。
同様に、探さなければ、そして叩かなければ、と思う。
もちろんそのことも、私達に示された大切な生き方です。
そのように神さまに対して正直に率直に生きることは重要です。
しかし、それにも増して、与えてくださる神を発見することは、求める以上に御心にかなっています。
すなわち、与えたい神なのです。見つけさせてあげたい神なのです。そして開いてあげたい神なのです。
主イエスはこのことをご存知でした。
ですから最終的に父親の姿をたとえにひきながら、私達に説いておられます。
よく考えるがいい。人間でさえ魚の代わりに蛇を与える父親はいない。
卵の代わりにさそりを与える父親はいない。
悪い者である人間の父親でさえそうなのであるから、ましてや、天の父は最もよいものをお与えになる。
その最も良いものとは、聖霊です。
聖霊は万能薬。なぜなら、愛そのものであり、全能の神のお考えを知る力であるからです。
私たちの心を開いてくださる方ですから、その肝心要の方をいただくなら、見えてくる。
こういう観点から今日の箇所を受け止めるなら、今日の箇所の真ん中に置かれたたとえも、これまでと違う聴き方が可能なのです。
求めなさい、よりも与えてくださるを中心に聴くなら。
このたとえ、真夜中に迷惑なことです。
ある人が真夜中に戸を叩いて友人を起こした。
というのも、その人の友だちが家に来たのだが、その人の家には何も出すものがなかった。
そこでパンを三つ貸してくれと戸を叩いている。起こされた友人は迷惑なことでした。
一度は断るのです。だが、ここで、しつように頼んだので与えたとあります。
このときのしつように、という言葉が問題です。
この訳のとおりに捉えますと、しつこく、ひたすらに頼んだから、友人も根負けしてパンを与えてくれた、ということになります。
だから、求めなさい、と続く。仕方なくという感覚が気になりますが、まあつながります。
そこで、もう一つの可能性を指摘する聖書学者がいます。
この、しつようにというギリシャ語アナイデイア、には「適切さへの感覚の欠如」という意味があります。
適切さが分からない、つまり恥知らずという言葉が当てられる態度です。
そしてこの恥知らずという言葉は、戸を叩いて頼み事をしている人についてのことではなく、戸を叩かれ、夜中に起こされた人について言っているというのです。
ということは、起こされた人が恥知らずとならないために、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう、となる。
隣人を助けることが大事にされるパレスチナで、困っている友を助けないという恥知らずの汚名を被らないために、
友だちだからというのでは起きないとしても、自分の名誉のためには起きてパンをあげるだろう。
こうなると、求めなさい、という言葉より、与えるだろう、という与え主の大切さに、つながりがよいのです。
しつこく頼んだから与えられた、だから求めなさい、ではなく、
求められた者は自分が恥を被らないために、求められたら与えるよ、というのです。
求められれば与える方なのだ、その方の心を信頼して、だから求めなさいと。
ということは、そもそもの話をすれば、今日の箇所は弟子の一人が祈りを教えてほしいとイエスさまに頼んだことから始まっています。
そして主の祈りをイエスさまが教えて下さいます。与えてください、赦して下さい、そう祈れと。
しかし、この祈りの心は、与えようとしている父なる神に祈るのであり、赦そうとしている父に祈るのだということです。
そこが肝心なのだということを話すために、たとえを話され、人間の父の有り様を示し、
ましてや父なる神はあなたがたに良いものを与えるのだ、とこう約束されるのです。
この道筋を歩むように、この祈りの心は与えようとする父なる神がいるのだということに信頼して祈るということであります。
赦そうとしている父に信頼して祈るということであります。それが主の祈りにとって大切なことなのである。
だから「おとうちゃん」と祈り始めることができる。
お父ちゃんと呼びかける祈りが成立するには、よほど信頼していないとできない。
主の祈りが画期的なのはこの「おとうちゃん」という呼び方だと言われます。
それまでの祈りは神という名を用いるのもはばかられるので、神を主(アドナイ)よ、と読み替えてまでその名を尊いものとしていた。
それが主の祈りからは「おとうちゃん」と言って祈れというのです。
信じて祈りなさいという心を手渡された。
以前、妻が教団の機関誌に子育ての体験を綴っていました。
その中にある時の幼い娘の言葉がありました。ある日、娘が妻の顔を見るなり「ねえ、怒らないって言って」と言ったというのです。
子どもが正直な話をするとき、あるいは謝る時、初めに「ねえ、怒らないって言って」と言ってくる。
怒らない親になら、本当のことを言えます。懐かしい思いがします。と同時に親である神さまに対しても同じことだと思わせられる。
イエスさまが教えてくださる祈りはそういう子どもの祈りなのです。
つまり、怒るかもしれない父なる神にそつがないよう美辞麗句で飾られた整えられた祈りに腐心するのではなく、
あるいは、こちらの願いをこれでもかこれでもかと祈りあげるのでもなく、
もうすでに、受け止めてくださっている父なる神の計らいに沿って、私が十分に生きることができますように、と祈りなさいと教えてくださったのです。
今日を、本当に生きさせてください、という祈りです。
この祈りを教えてくださった、この祈りの心を届けてくださった、これが今日のイエスさまです。
私の友人が思いがけずガンになり、現在、懸命に治療しています。
教会にもガンとともに生きておられる方々がおられます。
そんな事実もあり、ヘンリ・ナウエンの紹介するある癌になったある中年男性のことに目が止まりました。
その人は血液の癌である白血病に侵されていると分かった方でした。
そう分かった時、将来の可能性が突然絶たれたと思った。
すべての計画が崩れました。すべてのことが変わらざるを得なくなった。
しかし、「わたしはなぜ、こんな目にあわなければならないのか。
いったいどんな悪いことをしたので、こんな運命にあうのだろうか。」と問うことが少しずつなくなり、
その代わりに、「このことの中に、どんな約束が隠されているだろうか」という問いが心の中に生まれてきた、というのです。
それ以後彼は、自分の状態を直視することにより、自身の痛みや苦しみを他者を癒す力の源にすることができたと報告されている。ここに彼自身が命を再発見している、とナウエンは言います。(「静まりから生まれるもの」あめんどう刊)
友人のことを思いました。そしてこんなにきれいに問いが変えられるとも思わない。
正直この方もどれほど涙の祈りを重ねたことかと思います。
病を抱えた私たちの教会の仲間にしても「何故なのですか」という問いから、
この中に「どんな約束が隠されているのですか」という問いへ変えられるのは、そんなに簡単なことではないということは、すでに経験済みでしょう。
しかしながら、しかしながらです。
御心でしたら友人が、そのような問いを抱くまでに至ってはくれないだろうかと願うのです。
皆さんもご自分のことを思って、この苦難の中にどんなことを神は隠されておられるのか、
御心はどういうことですかと、問うていただきたい。
ぎりぎりのことです。ぎりぎりのことと承知しつつ、しかし、イエスさまに祈りを教えられたキリスト者は、その祈りと転換ができる、
その道を歩む者なのです。
どれほどの困難が皆さんの上にあって、紆余曲折があるかと思います。
しかし、一人、静まって、隠れたる神に心を注ぎ出す時、この困難が、命の発見につながるのです。
命の与え主を見出すことができる。
求めなさい、そうすれば、与えられる。主は、そうおっしゃるから。
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
神さまという方は与える方なのだとわかるために聖霊が与えられなければならない。
与えて下さるのは札束でもない。権力でもない。病気のない健康な体でもない。
神がこれをこそと私たちに与えてくださるのは、聖霊です。
親である神の心を知っている者は、どのような現実の中でもその人として生きられる。
それは貧しくとも、小さな者の生活でも、裏切られても、病気を抱えても、いまここにちゃんと生きようとする力が与えられることなのです。
神の約束、この一点のみに生きることが信仰である。イーヴァントの言葉です。
神は応える方で。そして、あなたは神の大事な子どもなのです。
与える方がここにおられる。
だから、求めなさい。