あなたは大切【2013年9月15日】
聖霊降臨後第17主日説教「あなたは大切」
ルカによる福音書15章1節~10節 説教者 斎藤衛牧師
そしイエスは言われた。
◆「見失った羊」のたとえ
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
そこで、イエスは次のたとえを話された。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
◆「無くした銀貨」のたとえ
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
人はだれしも自分の価値というものを見いだして、あるいは認められて生きたいと思うでしょう。
自分がここにこうやって生きてよいという思いを抱いて生きるのは幸いです。
ところが今の時代は、競争社会です。この世は人を業績で判断します。
成功志向、成功しているから価値があるというものさしが蔓延し、実はそれにびくびくしている私たちがあります。
さて、そんな私たちの現実に、今日はイエスさまが二つのたとえをもって、新しい神さまの地平をもたらしてくださいます。
今日の箇所の始まりに徴税人や罪人がイエスさまに近寄った、とあります。
直前に「聞く耳のある者は聞きなさい」(一四章三五節)とありますが、彼らはイエスさまの言葉を聞いたのです。
そこに何が起こったかといえば、世間からうとまれて生きるしかなかった徴税人や罪人とされていた人々が認められ、裁かれない世界の新しい喜びを知ったということです。
おまえは価値がないと言われ続けた者が、急に開かれた扉に招き入れられたような、戸惑いながらも、しかし、そこはかとない喜びを味わい始めたところ。
かつてのフォークシンガーで今は学校で講演もするオッサンがいます。いわゆる進学校へ行ったとき、どうも生徒たちの反応が悪い。
こんなオッサンの話を聞くより勉強していたほうがいい、と考えていたのか。
そこで彼は、「今日、俺は、通信簿が2以下の者たちのために来たんだー。」と叫んだ。
すると体育館がウォーという声で響いた。
だが、このことに我慢ならない人たちがいた。ファリサイ派や律法学者たちです。
不平を言い出したとあります。つまり、これまでの価値体系、価値のしくみが崩れてしまうではないか。
そして思うのは、イエスよ、この聖書が持っている価値のしくみに乗ってくれ。
彼らが一番納得できるのは、信仰の上で立派な、律法を守り正しいふるまいをする自分たちが一番先に上席でイエスと話し食事をし、
徴税人たちは末席で一番あとで話を聞く、それくらいのことはせめてしてほしいというのです。
さてさて、そこで、主イエスは、この際、神さまの見方を告げます。
一つ目の譬を初めて読む方はたいてい、いいんですけれど、九九匹を心配なさいます。
私なら、九九匹をひとまず安全な所に移し、価値を確保しておいて、私なら捜しに行くけれどとなる。
ですが、主は、その九九と一との価値を比べる目こそを問題にしています。たった一匹のために? というその目。
一よりは九九の方が大切じゃないか。これ世の価値観です。
あるいは、この一匹の毛並みがたいへん優れていて、売ったなら残りの九九匹よりも高く売れる、その価値があるとしたなら、血眼になって一匹を捜し回ることを私たちは理解
するでしょう。
つまり目に見える価値で測る。
しかしここでは七節で、「悔い改める一人の罪人」というふうに言っていますから、世間では価値のないものとして見られているような一匹を探したのであり、そうなると理解できなくなる。
だが、これが神の愛。主は一匹を捜すとおっしゃる。
一枚のドラクメ銀貨にしても同じことです。なくしたものを発見する喜びが強調されます。神は何が何でも捜す、そして大喜びするということです。
こうなりますと、一対九九、あるいは一対九という数は関係ないことを知ります。これが一対九九,九九九であろうと一対九,九九九,九九九であろうと、
そういう相対的な見方が崩されて、一がとにかく大切なのだということを言いたい。絶対の価値の中に入れられている。
私たちはそういう存在なのです。
「探し回らないだろうか。」(四節)。捜しまわるでしょ。つまり私は探すという断固としたご意思が聞こえます。あきらめない。
なぜここまで探し出そうとなさるのでしょうか。
それはあなたが大切だから。
それは、失った悲しみを深く感じているから。失ってもどうということはないと思っている限り、それほど熱心には捜さないでしょう。
だから、探さない手もあり得るのです。羊一匹を見失った。では九九匹で仲良く暮らしていこう。それは百匹のうちの一匹なのだから、そういうこともあるさ。
銀貨一枚を無くした。ま、そのうち出てくるだろう。
だが、神は探す、というのです。
失ったことが深く悲しいのです。失って痛くも痒くも無いというのではなく、痛いのです。苦しいのです。
ここに何を聞き取るべきでしょう。
つまり、それほどに一匹を、一枚を大切に思って下さっているということです。
一匹にも一枚にもかけがえのない存在である絶対の価値を神は認めてらっしゃるということです。
私たちが生きるこの世は質や能力を比べて価値を見い出す。けれど神は、そんなものではかるのではなく、一人の存在それ自体をもって一緒に喜んで下さる。
この愛の現れがイエス・キリストそのものなのです。
イエス様はおっしゃいます。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(五章三一、三二節)
主の姿勢は一貫してこの言葉を貫かれました。そして、十字架に向かわれた。
この捜し出すという行為は、主の十字架の出来事です。さがし出すという行為は危険に満ちているのです。
羊が落ちてしまった穴に自ら降りてゆかなければ救い出せません。この方にとって大きな困難がある。
しかし、この十字架によってこそ、罪赦された命の地平が開けるのです。永遠の命への道が開かれるのです。
永遠の命というのは、時間が長いのではない。あなたの命が永遠に価値があると認められることです。
お金が手に入ろうが貧しかろうが、死のうが生きようが、神様はあなたの存在を永遠に認めているという喜びが永遠の命なのです。
ある姉妹は、これを天への希望とおっしゃった。
私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。つまり、あなたは悪くないと言うために来た。あなたの人生は悪くない。そして天への希望を抱きなさい。
私たちの教会に「夕凪の会」というグループがあります。老いや死というものを我がこととして共に考えたり、共有している会です。
先日、志木で開かれた会では、ここにもおられるS兄がヘッセの詩をもとに老いについてお話をなさったそうです。
実は、S兄はコツコツとドイツ語からの翻訳作業をなさっています。その一部を紹介しながら、お話をされました。その翻訳された一文にこういうところがあります。
「そして現在、私たち自身の人生の大いなる絵本のページを注意深くめくるなら私たちはこのことに驚くことでしょう、
あの狩り立て追い立てられることから逃れて「人生を(ヴィータ・)観照する境地(コンテンプラティーヴァ)」に達したことはなんと素晴らしく良いことだったかと。」
絵本を開くように、わが人生を読み返す。すると若い頃には見えなかったものが豊かに見えてくる、と、老いを迎えた者たちの特別な喜びを告げます。
今日のシメオンとアンナの日にふさわしい文章をお分かちくださって感謝です。
その言葉に促されてご自分のこれまでの人生を、まるで絵本を読むように姉妹たちはたどったそうです。
すると、あんな時もあり、そういえば、こんな時もあった。でもその都度、助けられ、補っていただいて、ここまできたなあ、という思いが募った。
わが人生、多くの人に、そして何より神さまに支えられたなあ、と。
神さまの愛はとはこういう愛と、しみじみと味わったと喜んでおられました。
私たちは探された。見いだされた。それは失ってこそ見いだされる喜びです。
主こそ一匹を捜す方。罪にゆきくれ、疎外されていた者が今生かされている。私たちはそれを受け取ってゆくことで人生を歩み出して行けるのです。
そこから主の群れを作る力が与えられ、見いだされた一匹一匹の羊が加えられて作られてゆく群れが私たちです。
おのおのの人生も、教会も、あるいは結果が思わしくないかもしれない。しかし崩れない。「あなたは大切」と言ってくださる方を知っているから。
成功ばかり求めるような倣慢な自分と主の十字架が重なるのです。
あなたは大切と苦しみの十字架におられる主が負ってくださっていることを、私たちが仰ぐとき、そこまでしてくださったと、主に向かわせます。
私たちが品行方正な人生をもって神さまに近づくのではありません。失われた私たちに神さまが近づいて下さるのです。