荷物なしの旅人【2013年9月29日】

聖霊降臨後第十九主日 礼拝説教「荷物なしの旅人」
ルカによる福音書 十六章十九節~三一節  牧師  斎藤 衛


◆金持ちとラザロ
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。
犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。
わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。
今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。
あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

ザ・金持ち、と言ったら、現代では、ビルゲイツでしょうか。

彼の総資産6兆2300億円。

イスラエルやニュージーランドの国家予算が5兆円だそうです。

国も買えるお金を持つとは、いったいどんな心持ちなのでしょう。

それはそれで、日々心配かもしれません。持てる者の不安というのもあるでしょう。

そして彼なら、今日の聖書箇所を、どのように聴くのでしょうか。

畏れを持ちますでしょうか。

ま、そんなことはどうでもよいでしょう。問題は、私たちのことです。

御言葉は私に、そしてあなたに向けられています。

彼よりずっと規模は小さく、はるかに少ないお金で一喜一憂している私たちは、

さて、今日の御言葉をどのように聴くのでしょうか。

金持ちは悔いたでしょうね。あとのまつりを、これほど地でゆく姿はありません。

だがいったい、どうしてこういう羽目になるのか、まだわからないのです。

金持ちは何がいけなかったのでしょう。そしてラザロは何が認められたのでしょう。

聖書は比喩で真理を語ると教えられました。

今、私はある黙想会に参加しており、その最中です。

そこで教えられたのは、聖書を文字面で読んではいけないということ。

その奥にある天の文字を聴き取ることだということでした。

金持ちとラザロの姿を通して、イエスさまがおっしゃりたいことがあるのです。それはいったい何なのか。

この金持ちは、かつて生きているとき、毎日賛沢に遊び暮らしていました。

よいものに囲まれ、心地よい生活をしていた。

ここがいけなかったのでしょうか。

かたやその門前にいて、できものに、そして空腹にさいなまれていたラザロ。

もはや犬にしか相手にされない。金持ちは、門前のラザロに目もくれない。

ここがいけなかったのでしょうか。

そんな見える世界の第一幕のあと、見えない世界、死後の世界となった時、事態は逆転したと主は告げます。

この金持ちは苦しみ、ラザロは栄誉と平安を得ている。

金持ちはいま、激しく悔いています。

今や、わずか一滴の水を乞い願うほどの乾きにあって、あのラザロを来させて水を与えてくれと願います。

しかし、悲しいかな、あとのまつりなのです。

金持ちが苦しむ世界とラザロがいる世界とは大きな淵があって、行くことも来ることもできない。

すでに最後の審判がくだっているのだという。金持ちの嘆願は聞き入れられません。

なんとも厳しい話です。

ザ・金持ちのように贅沢に暮らしているわけでもなく、

かといってラザロのような厳しい苦しみにあるともいえない私たちはどうこれを聴くのでしょう。

イエスさまが私たちにあとのまつりの話をされるということは、あなたたちはあとのまつりとならないようにという憐れみからです。

それは金持ちが、今生きている兄弟五人についての願いに切り替えることからもわかります。

問題が、今生きている人間に向けられているのです。

死後の話をなさりながら、しかし、つまり、今生きる者のために語っておられます。

では、今生きている者のために何を告げておられるのでしょうか。

それは端的にいえば、神に聴く心です。

金持ちが生きている間、果たして神に聴いていたでしょうか。

おそらく、神のかの字もなかったでしょう。なぜなら満たされているのですから。

金持ちは金持ちで心配もあるかもしれない。

しかし金が解決してくれたり、その都度金持ちという権威がことを納めたり。

つまり、自分の力で生き仰せるなと思ってゆくわけです。

神さまなんて必要ない。だがそうでしょうか。

金持ちが、そういう生き方ゆえ、生きている間に味わえなかったものがある。

それは憐れみです。

彼は、何不自由なく贅沢に暮らしたかもしれないけれど、決定的に憐れみを体験していない。

その結果として、門前のラザロには目もくれなかった彼がいる。

自分が貧しいことを知らなければ、憐れみを感じ取ることはできません。

結局、持てる者同士の対面と見栄の世界に終始した人生。悲しい人生です。

自分が持たざる者として神の憐れみを必要としているという、そういう自分を見いだせぬまま、死んだのです。

ですから、死後の苦しみとして御言葉は描きますが、しかし本当は、人が生きることの苦しみが描かれています。

生きることは乾いていることです。

だが彼は、あまりにさまざまなものをたくさん持っていたので、気を紛らわし、

人間である自分の真実にまで、苦しみ乾いている本当の姿にまで、自分を知ることがなかったのです。

自分を知らないで生き、知らないまま死ぬ人生のなんと哀れなことよ。

その点、ラザロは、一人で生き、苦しみました。何も持たなかった。

よくラザロの信仰のことが取りざたされます。

ラザロは死後、報われるのですが、信仰があるともないとも聖書は言っていない。

だから、貧しいということ、そのものが神に受け入れられるということか、と。

そうかもしれません。

そして貧しさに生きる者たちが、ただそれだけの苦しみゆえに、報われることを願います。

しかし、こうも言えるのではないでしょうか。

ラザロはいつも神さまに聴いていたのです。

どうして私はこういう生活ですか。神さま、私を助けてください。

あるとき、思わぬパンが目の前のかごにでも放り投げられて手に入ったら、

ああ、有り難いといって、夢中で食べたか、あるいは少しずつ大事に食べたか。

いずれにしても、神さま、ありがとうございます、と言ったことでしょう。

つまり、貧しいということは、神と共に生きることができるのです。

逆に豊かと言うことは、神が必要ないのです。

この生き方の違いが、何をもたらすのかということです。

聖書は極端に描いて、焦点を鮮やかにしますから、落ち着いて聴かなければなりません。

これは死後の問題ではなく、今、私たちが生きていることの問題です。

死は取っ払われています。

つまり、今、あなたは、神に聴くという自分の貧しさを持っているか、と問われている。

神になんぞ聴く必要はありませんというような、自分で生きていけますというような、

神とまったく関係ない生き方をしていないか、と尋ねられている。

もし、神に聴く必要などなく、自分で考え、自分の持っているもので生きていこうとするなら、

それは実は乾きの苦しみを抱いていることなのです。

金持ちが死後に味わっている苦しみを自分の中に抱えている。

しかし自分の中にそういう自分がいることすら、気づいていない悲劇がここにある。

私たちの中には、ばらばらになった自分がいるといいます。

神を信じない自分も含め、私たちは一枚岩ではありません。

それが祈りによって、神に聴くことによって統合されてゆくという恵みが現れるのです。

もし、すべてを神さまに聴く、その貧しさを生きているなら、

これはお金の多寡ではありません、その心の貧しさを生きているなら、

たとえ、生活に苦しみやつらさはあったとしても、アブラハムのふところに安んずるような平安があなたに与えられるということです。

兄弟五人についてのことは、私たちについて言われていることです。

もし、御言葉に耳傾けず、神にも聴かないなら、

どんな忠告が与えられても、どんな奇跡が起こっても、それが神さまからの憐れみだとは、知るよしもないだろう。

今、自分の貧しさを知ることではないでしょうか。

神に聴く心は、平安をいただくことができます。

だれも一人で生き抜くほど力を持っているものではありません。

だから、憐れみを知り、支え合います。

私たちはビルゲイツほどザ・金持ちではありません。

でも、小金は持ちたいか。

しかしどんなものを持っていても、神の平安への旅については役立ちはしない。

お金に限らず、知識や徳も。

むしろ逆に持っているものから離れ、貧しい自分になる。

そして神に聴いて生きてゆく。荷物なしの旅人になることです。

そのとき神さまの憐れみのうちに歩むことができる。

私たちは、荷物なしの旅人なのです。

ところが、たくさん抱えようとしてしまう私がいる。

荷物を置いて旅をしよう。

心の貧しい私の姿。この清々しさが、互いに助け合う神の国を出現させます。

神よ、何も持たない貧しい人生の旅人として、あなたに聴きつつ、生きることができますように。

私たちを助けの御手で祝福してください。アーメン