揺るがぬ約束【2009年11月22日】

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聖霊降臨最終主日礼拝 礼拝説教「揺るがぬ約束」
マルコによる福音書13章24節〜31節  牧師  斎藤 衛


「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、

/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、

人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、

彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、

人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。

これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

教会の暦の最終日を迎えました。一年の終りの礼拝です。

年の瀬も近く、いろいろと終りを思うこのごろです。

このところ有名人が亡くなられて、一年の終りばかりでなく、

今更ながら人生の終りをつきつけられる思いです。

私たちは普段、日々の心地よさに生きて、どこか無関心に将来に向かっているようなところがなくはない。

なくはない中で、地上の生には終わりがあることを知らされるのは、意味のあることです。

この地上の生には終わりがあるとしみじみ思わせられる。

命の終りを考えることは、今を深く耕すことにつながります。

何に信頼するかということ。

そして今日、聖書は世界の終りについて告げます。

「なんとすばらしい建物でしょう」(十三章一節)という弟子の言葉がきっかけでした。

今、目に見えているもの、手で触れるこの建物のなんと確かなことよ。

壮麗な神殿は、いかにも盤石です。建設に四六年かかったと聖書で人々が言っています。

これほど確かなものはないと思うのも無理ないことでしょう。

しかしそれはやがて、目に見えるものに信頼することを覚えさせ、

いったい何が本当に信頼できることなのかを見失わせることでもあるのです。

イエスさまはこれに対して、見えるものには必ず終わりが来ることを知らせます。

そして、やがて最終的な世の終わりが来ると。

弟子が感嘆したこの神殿さえ崩壊する時が来ると大胆に言い切ります。

それは弟子たちにとって衝撃です。

そして私たちにとっても、互いの生活に終わりが来ることを示されるのは、

受け入れがたいことかもしれません。

しかし終わりが来ることに向かっているのです。

この世界の終わりを私たちの死になぞらえるなら、まさに一人ひとりは死に向かって、

死と共に生きているのです。そんな終わりを承知することは気が乗らないけれど、

実はそこから本当に生きることへの扉が開かれます。

聖書は終末が来るとはっきり言います。

そして、そのときには苦難があると告げられます。

絶望の極みに投げ入れられるということです。

戦争・地震・飢饉。このような大きな苦難の後、天体が揺り動かされるほどの天変地異が発生します。

つまり、もはや人の力ではどうすることもできない段階です。

これを聞いて人は終りを恐れるかもしれません。

しかし、イエスさまがおっしゃるのは、恐れよと宣言されているのではなく、

そのときにこそ、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい、ということ。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(十三章二六節)。

人の子とは、救い主です。

絶望のときにこそ、希望が近づいていると悟りなさい、このことを伝えようとされたのです。

私たちは、困難はいやだと思うでしょう。望むらくは穏やかな平穏な人生でありたい。

しかし苦難は来るのですね。

それぞれの人生にふさわしいあり方で、それぞれに苦難がやってきます。

だからその時、私たちがどんな人生の構えをするのか。

恐れるのか、避けようと慌てふためくのか。落胆するのか。

主は、その絶望の時こそ希望の時だと告げます。逆転です。

困難が差し迫ったなら、主の日は近いと悟れとおっしゃるのですから。

いわば、この時が本当の希望の見えてくる時なのです。

砂金ってあります。その砂金採りの方法をご存知ですか。

私もまだ試したことはありませんが岩畳のある川など見つけられるそうです。

そのより分け方法は、特別なお皿に砂と金の粒がまざったものを入れ、そこに水を注ぐそうです。

水を皿の向こうから手前に寄せて、また向こうへ傾ける。

それを何回も繰り返しますと、水の力で砂が向こう側へ行き金が残るわけです。

つまり、小さな皿の中で波を起こして砂を流し、本物の金を残す。

なるほど本物は残るのです。なぜなら、金は水の二十倍、砂の三倍重いとのこと。

重く揺るがないものは残って光輝く。

人生にも波が押し寄せますね。しかし、その波によって本当に信頼できるもの、本物が見えてくるというわけです。

何が真の希望なのか、それを見出すための苦難の時と承知しませんか。

「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(二九節)

とはいえ、私たちの理解で苦難を受け止めようとしても難しい。

ですから、むしろ、「理解せずにはいられない」その執着を離れたときに、

支えて下さる神さまの御心が、にわかに受け止められるのでしょう。

私たちはどれほど自分が描いた自分なりの幸せに執着していることでしょうか。

だから苦難を受け入れることはできない。

その執着を自分の心から解き放すなら、イエス様の希望が立ち表われます。

よく人生を一枚の刺繍や織物に例えて言われます。先日の集会でも話されました。

天の神さまの目には美しい織物として一人ひとりの人生が織られているけれど、

しかし、その裏、地上から見るなら、それは糸が垂れていたり、苦闘の跡というか混乱というか、

絵柄として何が描かれているのか解らない。謎です。

ある姉妹の友人は「こちらからもきれいに見たいのよね」と本音をおっしゃるそうです。

つまり、自分にもいいことが起こる人生でありたい。本音です。

でもどうでしょ。自分の見方に固執していませんか。私たちは自分が見たいようにしか見ないのです。

一見何が描かれているか分からないような刺繍も、だが信じると美しい絵柄が立ち現れる。

その点、苦難の中で自分の考えが変えられ、削がれて行きます。

自分の見方、自分にとっての希望が捨てさせられることで、

あちらから来られて、戸口に立っておられる主イエスの約束の真実が見えてくるのです。

この希望に目を覚ましていなさい。

どんなときにも神さまは私を信頼しなさいと語りかけておられるのです。

十字架と復活は、私たちに端的にそのことを示して下さいます。

主イエスはご自身、身をもって父なる神に信頼し苦難を受け入れていく道を示してくださいました。

やがて、その信頼は神の愛による復活へとつながるのです。

神の愛は見捨てません。

揺るがぬ約束を今日も与えて下さっています。人の子が来ると。

その最終的な終着点を信じるものは、今与えられている苦難、

あるいは、これから与えられるであろう苦難も、神さまの愛の近づきとして、受け止めることができるのです。

私たちと一緒に働いてきましたLLIルーテル外国語学校が休校します。

閉じられます。長い歴史を持った学校ですから残念です。

VYMのキャロルやキムはこのことを生徒達に告げているのですが、

本人たちも生徒たちも悲しくショックを受けています。つらい時期です。

しかし先日のデボーションでキャロルは言うのです。とても悲しい。

でもこれから新しいことを起こす神さまの計らいでしょう。胸に迫ってきました。

それを信じると。この思いになるまで、どれほど揺れ動いたかなと思いますが、

今彼女はそう受け止められる。そして「御手の中で」を歌いました。

御手の中で、すべては讃美に変わるという歌です。

そして私の行くべき道を示して下さいと願う歌。

御手の中ですべては感謝に変わると歌いました。

イエスさまの御手の中にあって、揺るがぬ約束に委ねることで新たな道が示されてきます。

主イエスは弟子たちに、このように生きる心を備えて欲しいのです。

目を覚ましていなさい。

ローマの信徒への手紙八章二八節にはこうあります。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、

万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

キャロルに教えられました。私たちにもいろいろなことが起こるけれど、

御手の中にある信頼に生きるなら万事が益となることを知っているでしょ。

目の前の絶望にもめげず、パウロはこう信じて揺るがぬ約束に生きました。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(十三章三一節)

どんなに過酷な人生でも、そこにはみ言葉が与えられている。

現在・未来の災いを思って、恐れを抱くのではなく。

困難な出来事の中でも、しかし揺るがぬ希望、揺るがぬ約束、

神さまへの信頼を得なさいと告げています。

いろいろな困難が襲うと書いてあります。心しようではありませんか。そういうものなのでしょう。

しかし貫いて語られるのは、神さまへの信頼です。

主イエスの約束の言葉は、本物の金にもまさって輝いています。それを共に信じたいと願います。