2026年5月17日 主の昇天「祝福であり続ける主」

ルカによる福音書 24章44節〜53節

44イエスは言われた。「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』48あなたがたは、これらのことの証人である。49私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」 50それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

主の昇天は、一見子どもじみた光景と言われてしまうかも知れません。五○、五一節「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」とあります。

まさかというような光景ですが、聖書には同じように、まさかというような事がたくさんあります。五○○○人もの人々が、たった五つのパンと二匹の魚で満腹になったり、ラザロが生き返ったり。どうして聖書はこれらまさかと思われるようなことを真顔で伝えているのでしょう。説明付かないことです。そう説明できないのです。神のなさることだから。

で、こう思います。この「まさか」ということに、普段隠れている神さまが、ひょっと顔を出されるのです。つまりこのまさかに神さまの心が現れ出ている。その意味で実は、説明できないことが大事だと思います。愛も説明できないではないですか。信じる事だって説明できない。説明するという類いのものではないのです。五〇〇〇人の給食には生かそうとする神の心が。ラザロの生き返りも生かそうとする熱意が顔を出しています。

では、主の昇天ではというと、信じる者にとっては、この子どもじみた「まさか」に、私たちの最終的な拠点(※拠り所)が示されたと聞こえて、うれしくなるのです。このまさかに、祝福であり続ける主の心が溢れています。目に見えたり手で触れたりする、この現実に最終的な根拠はありません。それは天にある。

祝福って神の与える良きこと、恵みです。イエスさまは、祝福しながら天に上げられたのです。それはイエスさまが帰り着く天全体が、地上の弟子たちを祝福し続けていることを示しています。つまり、神はあなたを良しとし続けている。

この天の祝福を人生の基盤としなさい。そうすれば、地上の価値観から解放されますよ。

そして、この祝福は命です。太陽の光のように命を支え続けてくれます。背景にある私たちの地上は、祝福とは正反対のいわば呪いが横行していると思えます。呪いという言葉はおどろおどろしいですが、でも、憎しみや恨み、蔑み合ったり、つまり、罪の世でしょ。御子イエスを受け入れず、神をも呪った結果が十字架でしたが、呪いは死です。この呪いから逃れたくてうごめいている私たちなのに、でもどうしようもない。

しかし、ここに、天は祝福し続けておられるということなのです。命を与え続けておられる。聖書はそれを言っています。その祝福の内に入れられた私たちではないか、いやもっと言えば、天の祝福に属している私達だと信じるなら、なんと命与えられることか。

さて、このときも弟子たちは、これまで起こったことが何を意味するのか、まだわからないでいました。十字架と復活です。勝利が栄光を生むというような分かりやすさではなく、十字架は敗北なわけです。しかしその負けの死をもって命が新しくされるという、逆転が起こったことです。

イエスさまが十字架に死なれたことは衝撃でした。すべてを失った。弟子たちは逃げ惑い、恐れた。自分たちこそが十字架から逃げた後ろめたさもあったでしょう。やがて、復活の主に出会った時、恐れおののき、信じられず、うろたえ、不思議がっていた。今日の直前の箇所はそういう描写です。死んだかたが目の前に復活されている。弟子たちに理解できません。

そこで、復活の主が語られるのです。聖書を悟るために心を開かせて。こう書いてあるでしょと。救い主は、苦しみを受けるのだよ。苦しんで死んで、そして三日目に死者の中から復活するのだよ。そこで私の名によって罪の赦しを得る悔い改めが、すべての民族に伝えられる。悔い改めというのは心の向きを変えるということ。神に心を向けることが起こってゆく。あなたがたはその証人なのだ。苦難の奥にある命を知らせる神に心向けて生きる人となれ。そのために私はあなたたちに聖霊を送るよ。
そう言ったあと、主イエスは手を上げて祝福された。受難の苦しみは絶望で終わるものではない。むしろ受難を通って復活の命が現れると話される。罪を赦す側の神が苦しまれたのです。どれほど神が赦そうとされたかということです。御心は深く広く、真実です。この御心を受けとるために聖霊を待ちなさい。なぜなら、全てを愛として受けとらせる聖霊が与えられれば、この神の御心はまさに愛と分かるから。その聖霊を送るため、主は天へと離れてゆかれます。

昇天があったのはベタニアですが、ベタニアという地名は「神により頼む貧しい者の家」とも訳されるものです。イエスさまはベタニアから天に行かれたのですね。それは悩みや貧しさの中にあってしかし、そこが命の回復される神の祝福につながっている場所だと教えているようです。そこから天に行かれました。

祝福される主の手にある釘の痕を思いましょう。この傷痕はイエスさまに対する人間の呪いであった。イエスを信じないという神への否定が凝縮したものです。ならばと、神がその呪いへの報復として、さらにその傷から神が呪ってもおかしくないのです。

しかし主は驚くべきことに、それを祝福に変えられているのです。ご自身が受けた呪いを、他者への祝福に変えておられます。神のみ旨は、この逆転にあります。いや呪いなど無いのでしょう。祝福が全てである。つい、逆転と思う私たちですが、実は、神とは祝福であり続けるかただと分かります。何も変わっていない。なんと有り難いことでしょう。呪いから解放されます。

 私たちの生きるこの世は、持っているかいないか、価値があるかないかで賞賛が生まれ、また呪いが生まれます。その呪いに左右される地上の私たちです。

しかし、天の祝福に属している自分の命を知るなら、地上の価値判断は何ものでもなくなります。この世がなんと言おうと、あなたがどう思おうと、もうすでに、天はあなたの命を祝福してくださっている。この宝を手にするので、もはや、この世に左右されない。囚われない。

弟子たちは、この恵みを手に入れました。自分ができるかできないかではなく、神の確かな約束と祝福をもって地に生きられる。なんと自由、なんと軽やかな心持でしょうか。

弟子たちは「大喜びでエルサレムに戻」(五二節)ったとあります。この喜びとは呪いから解かれた喜びです。この解放の喜びは、今度は呪いを祝福に変える生き方を私たちに与えるでしょう。あなたが主の証人として生きるということは、呪いを祝福に変える生き方を、あなたが生きるということです。主の十字架と復活をわが人生に重ねて、生き抜くことだ。

でも、そんなことできるだろうかと思われるかもしれません。もっともです。だから、「高いところからの力を」(四九節)を待ちなさい。つまり聖霊の働きが必要なのです。

私達も恐れて逃げていたような者ですが、現に大いに喜んでこのように御言葉のもとに集まり、天の恵みをいただく者たちに変えられているではないですか。地上の命に生きながら、しかし天の命に生き始めた変化です。

互いの旅に、呪いの傷はあるかもしれませんが、もはや天の祝福に属した命です。この旅を喜び合いましょう。

主の昇天とは、天につながる命をいただいて、信じて私たちの足で生きること。その人生が与えられたことなのです。そして、この歩みこそが祝福されている歩みなのだ。呪いを祝福に変える主の逆転の恵みが、私たちの人生にも生きています。悔い改めて、主の赦しを信じて生きる人生にこそ、幸いがある。自分の命が天に属しているのであり、そこに支えがあることを信じて生きればよいと知ったのです。なんと軽やかな心持ちでしょうか。

恐れていた者たちが喜んで生きはじめた。

もはや呪いは祝福に変えられました。天はあなたを祝福し続けています。天は味方であり続けます。

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