21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に退かれた。22すると、この地方に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ます。」24イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と言った。26イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」28そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。(マタイによる福音書15章 21〜28節)
思い通りにいかないことというのは私たちにも多いことかと思います。突然病気が襲ってくるということであったり、会社を突然解雇されてしまったり、ということがあるでしょう。あるいは、愛する者が苦しんでいるとか、愛する者を失うことだってあるわけです。神さまどうしてこんな壁があるのでしょう、と訴えたり、助けてと声を上げるのですが、現実は変わらない。
現実が変わらないということは、神さまが応えてくださっていないことだ。こんな分厚い壁があるでしょうか。神さまに願っても、祈っても、訴えても何も変わらないのです。神さまは拒否しておられるのだろうか。そう思っても致し方ないと思います。
さて、そのときに、今日登場する人物は「主よ、ごもっともです」(二七節)と応えています。主よ、ごもっともです。私はその現実を受け入れます。では、私たちは現実を受け入れることができるだろうか。
今日示されるのは、この壁というものがあってなお、信じる信仰を女は抱いていた。そして主はそれをほめられたことです。そう考えると、信仰の道のりとは、ただ平穏な道のりがあるだけでなく、壁が与えられ、その壁にも関わらず信じることを通して、まこと主に近づくことが出来るのだと知らされます。
相撲の「てっぽう」という稽古のように、動かない柱を何度も突くことで力士は鍛えられます。そんな稽古にも似て、壁に突き当たる、その苦しみは信じる道を確かにします。
今日のイエスさまは、ずいぶん冷たいとお感じかもしれません。女の願いに、はじめは沈黙、そして、二四節「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」との言葉。極めつけは、二六節「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」との答えでした。ここは「小犬どもに」という訳さえあります。女の願いを明らかに拒否したということです。
現実の壁のつらさに苦しむ者が、なんと神にまで拒否された。相当な痛手だと思います。
さて、そこで、立ち止まって思い直してみたいのですが、私たちの思い通りに働いていただきたい神さま、というのを私たちは思い描きがちです。たいていそういう封に神さまを捉えるでしょう。
さきほどイエスさまのことを、ずいぶん冷たいと言いましたが、それはつまり、こちら側の思い通りになることを期待していて、それがそうはならないから、そう感じるのではないか? もちろん、私たちが願うようになってほしいというのはあります。しかし、あまりに自分の願いが先で、神さまのお考えを汲み取ろうとはしていないと言えます。
その意味で、カナンの女の、主よ、ごもっともです、この言葉は、私たちに逆に投げかけられる言葉です。つまりイエスさまだから助けてくれる、ではなく、主が壁になっていたとしても、あなたのお考えが主ですと言えるだろうか、そのことが私たちに問われている。
主は拒んでもいいのです。神さまの自由。拒んだらおかしいだろと思うのは、むしろ、こちら側の問題でしょう。神はこうあるべきという思い込みがそれをさせます。主は拒んでもいい。
このときイエスさまは癒やしに慎重でした。なぜなら、それはイエスさまが「癒し屋」になりそうな事態だったからです。これは弟子たちの言葉や態度に表れています。
弟子たちは二三節で主に近寄って願いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついてきます。」と。
これは何を言っているかというと、この女、もううるさくてかなわないですから、イエスさま、さっさと治して帰してやってください、ということです。イエスさまは、治すのはお手のものではないですか、と言いたそう。弟子にしてこうなのです。
というように、私たちにも、イエスさまを現実的な問題解決の与え主という勝手な思い込みはないでしょうか。あります。
対してイエスさまは「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えた。これは弟子に対して答えていて、一番近くにいる者が何を勘違いしているのかと言いたそうです。私は決して癒し屋でも御利益宗教の教祖でもない。飽くまでも福音を届けに来ているのだぞ、と。神のご計画を遂行しようとしているのだ、と。
ところが、そうやって突っぱねたカナンの女の中に、意外にも神のご計画に従う信仰を見たので、主イエスは驚かれたのです。この女、御利益を求めているのかと思ったら、このカナンの女にひたむきな信仰が息づいていることを知ったのでした。
今日のカナンの女、娘の苦しみを助けてくださいと願ったが、道が閉ざされました。しかし、ここで、この女の中にもう一つ粘り腰で見出した言葉がありました。それは「でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(二七節)というもの。
パン屑。ここに恵みがあります、と言っている。なにも形のいい美しく立派なパンが与えられなくてもいいと言っているのです。それを要求できるような者ではありません。カナンの女とは異邦人です。イスラエルの救いからは遠い者。その異邦人がここで、こぼれ落ちたパン屑で結構ですと言っています。つまり、あなたの一片の憐れみを心から喜びますと、そう言っています。これが、主の驚かれる信仰なのです。神がいないと思われるような時に、しかし、神の御前で、神と共に生きている姿が意外なところにあった。立ちはだかる壁の分厚さに目を奪われず、いわば壁の向こうにおられる与え主をちゃんと観ている信仰です。
私たちは、人生の格闘の中で、困難や苦しみがふりかかると、その時、やはり神はいないと神さまにそっぽを向きがちです。壁は壁でしかなかったかと落胆する。しかし、聖書は、この女の姿を示して、苦難の中でいかに神の真実に信頼するか、それを教えてくれます。「それでも信じる」という生き方です。与えられたその困難を受け入れるところから、恵みを受け取ることができると知りなさい。
神さまの拒否とも思えるような出来事を通して、私たちは実は、本当に生かされる、ということに近づいています。
カナンの女は、壁に直面してしかし、しなやかに、パン屑をいただける喜びを表明しました。私たちは身に降りかかる壁をいやなものだと思いますが、しかし、その壁は、さらに深い人生の喜びに至る必要な重石の意味を帯びています。
だから、カナンの女にとっても、それはイエスさまの拒否ではなく、彼女の願いがより完全に聞かれるためのものでした。その意味で、娘はこのとき癒されたのです。
イエスさまはカナンの女の信仰に触れ、これからご自分がたどることになる十字架への道のりに、逆に、新しい励ましを得たのではないでしょうか。ゲッセマネの園で主は悲しみもだえて祈られました。二六章三九節「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」と。私たちも苦難の杯を与えられましたなら、この杯をないものにできないでしょうか、と祈る時があるでしょう。しかし主は続けてこう祈るのです。「しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」と。壁の向こうの父なる神を、いや、壁として立ちはだかる十字架のそこにおられる父に信頼することができています。おかしなことですが、苦しみに信頼しているのです。
私たちの人生に与えられるさまざまな壁。それら全ての壁の向こうに愛の主はおられます。主が決して見捨ててはおられないことを引き出したカナンの女と共に、今あなたに与えられている困難も、受け入れなさい。それは必要な壁なのです。
パン屑と言いますが、五〇〇〇人の給食の時、パン屑が集まって一二のかご一杯になりました。私たちのようなかけらがあって一二という完全が生まれます。神はパン屑を愛おしんでおられる。立派なパンの恵みは手に入らずとも、パン屑の味わいは、パンそのものの味以上に心にしみるものなのです。
迫る人生の壁、あれは拒否ではなかったのだ、あのパン屑もこのパン屑も小さな力や言葉に励まされ支えられて、今に至っているではないか。それに気づかせるための壁でした。このパン屑の味わいは格別です。神の本当のお考えにたどり着けるのですから。
今あなたに与えられている困難も、受け入れたらいい。それは必要な壁だからです。
望みの神が、信仰から来る あらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを 望みにあふれさせてくださるように。 アーメン。

コメント