2026年6月21日「天に属して地に生きる」


マタイによる福音書一〇章二四節~三九節

24弟子は師を超えるものではなく、僕は主人を超えるものではない。25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで+分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう。」26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。27私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀はーアサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」32「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。33しかし、人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む。」34「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなたからである。人をその父に娘を母に嫁をしゅうとめに。36こく、剣をもたらすために来たのだ。35 私は敵対させるために来うして、家族の者が敵となる。37 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。38また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。39自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。」

こうやってみ言葉に聴く時というのは、これは神さまとの垂直のつながりに立ち帰る、つまり、天に属する大事な時ではないかと思うのです。人は、いわば水平の、地に生きますが、信仰者は加えて、天に属すつながりに生きる者だと思います。それが、今のこの時です。

そしてその垂直と水平の交わるところが十字架です。

主イエスの十字架を思えばわかるように、そこは苦難の場所となります。天の思いを抱きながら地に生きるというのは、なかなかに苦難が生まれる。葛藤が生まれる。苦しみがあるのだと思います。

ですから、天に属して地に生きるという仰者の道のりには困難や苦難はあるものなのだと言われているようです。

こんなことを言いますと、これから聖書を学ぼうと思っているかたや教会に来て間もない方は、今日の御言葉で大変なことが言われていると思われるでしょう。恐れをなすかもしれません。

そうです、弟子達も同じ恐れを抱いていました。だから、主イエスは「恐れるな」と告げておられる。

でも、です。今日の使徒書に耳を傾けましょう。四節「私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」とあります。

この苦難は新しい命のためなのです。むやみに困難が与えられるということではない。弟子がこうむる苦難は、新しい命を手に入れるためなのだと承知しようではありませんか。

普段の生活でも、あの苦労があったから新しい道が開けたということがあります。だから厳しい言葉に恐れず、天に属して地に生きる、それが生み出す新しい命を受けとりなさい。

そこでまず、二四節からの言葉では、あなたたちに責任はない、ということが告げられます。二五節「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」とおっしゃる。どれほど弟子達を勇気づけようとしているかということです。

つまり、責任は主にあるということです。

たとえばもし、「主人がベルゼブル(悪霊の頭)だと言われるなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」(二五節)と告げていますが、確かに主人の評判によって、家族がさらに大きな被害をこうむることが-あるでしょう。だがしかし、それは皆、主人とこの世と2の闘いなのだと。あなたたちに責任を負わせないということです。あなたたちは真実であるかたにつながっていれば、それでいい

なにせ直前の箇所では逃げてもいいとさえ言います。

だから、人々を恐れてはならない、ひるむなと。

私たちは人にどう思われるか、人の仕打ちや人に責められることを恐れて、自分の態度を決めることがあるものです。そうやって地で生き抜こうとします。

でも、そんなとき、私たち自身は、実は本当の自分を抑えていますね。本当の自分が感じていることを抑えで、抑えて。そうしているうちに自分が何を感じ、何を基軸に生きようとしているのか分からなくなることがあります。人を恐れて自分を見失うのです。私たち人のストレスのほとんどは人間関係だと言われる所以です。地では、人を評価したり比べたりする目に溢れていますので、その世界を恐れます。

それを恐れないためには、本当に恐れなければならない存在を知ることです。するとこの世の恐れは、どれほどのものかとなるでしょう。

神を畏れよと。二八節では、「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲくナ(地獄)で滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」とあります。体を殺されるので十分恐れますが、しかし、さらに恐れなければならないのはなんだろうか。魂まで殺されてしまうかた。

ならばさて、人々と神、そのどちらに倍を置くのかと問われるのです。人々を言じ地の様々な評判を恐れるのか。そうではないだろ。神こそ恐れじることではないだろうか。

と言われても、私たちにとっては、両方大事だと思えます。ですが、その順序が問題です。私たちの本来をどことするのか。天に属すことです。天に属した者が地に生きます。地に生きることが先ではない。神を恐れ神に属す者が地に生きるのです。そこの順序を間違うと、人々への恐れに巻き込まれてしまいます。

ルカ10章にマルタとマリアという姉妹の話が出てきます。働き者で気遣いのできるマルタと、イエスさまの足元でイエスさまの言葉を聴くことを選んだマリア。あるときイエスさま一行のもてなしのためにマルタは立ち働いていた。あまりにマリアが手伝わないものですから、手伝ってくれるようマリアに言ってくださいと、非難する思いのうちにイエスさまに頼みました。するとイエスさまは「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(一〇章四一節)と告げました。

どうでしょうか。働き者のマルタが可愛そうというのが多くの思いでしょう。ですが、この世のあれこれが大事だとするそのマルタの感覚ではなく、主の足元にいてみ言葉に聴き、主と共にいたマリアの選びが大事だと告げられる。マリアは必要なただ一つのこと、良い方を選んだというのです。神の言葉にひたすら聴き神の憐れみにつながり、マリアは神の休息を得ています。それは、天に属す者となることが何より大切だという意味です。神の愛に立ち返り、赦されて生きることはなんという平安。そこから生きてゆくのだ。そうおっしゃる。マリアはちゃんと確保した。神の真の休息、神に生かされる命を。

この個人の魂に起こっていること、それを言い広めよとおっしゃる。二七節。暗闇でのことを明るみで言え、耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。私たち一人一人心の中で起こったこと。主によって助けられたこと、赦されたこと、励まされたこと。それらを明るみで言いなさい。なぜなら、天とのつながりは、誰にとっても必要な生かされるつながりだからです。人は皆、心ゆくまで休息したいのです。しかしどこへ行っても、誰といても、一向に休めない。人を気にしている自分をどうやっても拭えない。

ここは、神の休息によらなければならないのです。心ゆくまで神の休息に与り、天に属すことが必要です。
天に属すことなのです。しかし、人はそれに気づかないでいるか、気づかないふりをしているか。

だから「天の国は近づいた」(七節)と宣べることなのです。つまり、今や、神さまとの垂直の関係を取り戻せるのだと告げなさい。ただし、ここには迫害が伴う。なぜなら、主イエスのこの時代、律法が生きることの尺度でした。地に生きることの尺度は律法です。ですから、そこから外れた罪の者に、神は赦していると告げるのは、大反対を受けるに決まっています。だから迫害が起こる。やはりマルタが尊ばれ、マリアは責められる存在になるものなのです。それは今でも同じ。

でも、恐れるなとおっしゃるのです。人を恐れず神を恐れよと。その本当に恐れるべき神は、なんと、何よりあなたのことを大切に思っておられる。命の一切の責任を持っておられる。神は、雀よりも何よりも、あなたを大切に思っているのだからと、主は励まします。

この良き知らせを受け入れるかどうかなのです。三二節。「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、私も天の父の前でその人を拒む。」主によって天に属す自分であることを受け入れれば、天に受け入れられ、拒めば拒まれます。自分の中の闘いなのです。だから受け入れなさいと。

これは地において一番近しい家族が最も敏感になることです。家族が地での愛着が最も濃いわけですから、天のつながりを赦さないのです。だから対立する。

ただ、よく考えるがよいのです。順序が違う事を。主との関係があって、本来の家族となります。神さまとのつながりがあって、私たちはやっと人を大切にするつながりを持てます。本当に手をつなぐために、手を離す必要があるのと同じです。剣をもって家族としての愛着から離れ、天に属す者となる時、そこで初めて地において人を愛することができる。愛着ではなく、愛によって家族が家族となる。そこから私たちの人生と世界は彩りを持ち始めます。

今日のみ言葉は怯んでしまう言葉が多いのですが、その分、恐れるなという言葉もたいへん多いのです。つまりここには、弟子達を思う主イエスの心が根底を流れています。一六節では「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである」と告げています。どれほど心配だったでしょう。しかし神の愛はあなたの恐れもいくじなしも、全部支えて遣わします。

自分の十字架を取るとは、天の赦しと地の罪の交差する所を生きることです。天か地か、そのどちらかだけなら十字架になり得ません。天に属して地に生きるのです。すると自分の罪も世の罪も見え、にもかかわらず神が赦すことも見えてくる。つまり神の愛です。そのとき、苦難は恵みだと言える者とされるでしょう。

そこで、新しい命を得るでしょう。

自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである」(三九節)。人が生きるのに本当に大切なこととは、神の愛を得て生きることです。キリストの弟子たちは苦難の道を歩くが、かえって得る者になるという逆転の約束が、今ここに告げられているのです。

アーメン。

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