2026年7月26日「僅かの豊かさ」

31また、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔くと、32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」33また、別のたとえをお話しになった。「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取ってミサトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」44「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その画を買う。また、天の国は、良い真味を探している商人に以ている。46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。47また、天の国は、海に降ろして、いろいろな魚を囲み入れる網に似ている。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に集め、悪いものは投げ捨てる。4世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中から悪い者をより分け、50燃え盛る炉に投げ入れる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」51「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは「分かりました」と答えた。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」

先週の礼拝に、自宅療養中のS兄弟がお連れ合いのS姉妹と共に、娘さんの運転で来られました。たいへん久しぶりでした。礼拝とそのあとの交わりも信仰の仲間達とたっぷり過ごして家に戻られました。喜びの再会を主に感謝しました。

その何日かあとが定期検診だったそうで、その時の様子をS姉妹が電話で教えてくれました。どうしました?ときくと、夫がいつものように医者に診てもらったとき、娘さんが医者に報告したそうです。日曜日には教会の礼拝に行けたこと、礼拝堂への急な階段だって手すりにつかまりながらゆっくりと、自分で上り降りしたこと、教会の友人たちと楽しくおしゃべりしたこと。するとその医者は「クリスチャンは強いねぇ」と言ったというのです。何度も感心していたようですが、そのことが嬉しいのだと姉妹は私に話します。つまり医者の見立てではとてもそんなことはできないだろうと思っていたようなのです。医学の知識と医者の経験からはそれは無理な事だと思った、しかしSさんは不思議と出来ている、そして検査しても元気である。医者は「クリスチャンは強いねえ」という言葉で言い表すしかなかったようです。それを姉妹が嬉しそうに私に教えてくれました。聞く私も嬉しくて、二人で笑った。私の中では、してやったり、と言いたいところです。

それみたことか、わかったか。信仰を見くびっちゃいけない、なんて。

でも一方で、医者にそう思われる様子の中、Sさんは礼拝にいらしたのだなあと、兄弟のどうしても礼拝に行きたいという気持ちが改めて尊く重く感じられました。

信仰には秘められたる力があるのです。そう思いませんか?人の目には不思議なのです。姉妹と二人で喜び合ったのも、ここに神さまのお働きを見たからでした。それが嬉しかった。

思えば、イエスさまというかたは、この信仰の世界携え持ってきてくださったわけです。そうやって人を励まして、支えて、そして十字架と復活を通して、の神の愛をいっそう色濃く示された。

ところが私たちは、それを聴きながらも、現実の不安や恐れが迫ると、その恵みはいったいどこにありますかとなる。このときの弟子たちも同様です。そんな私たちに、今日、イエスさまは五つのたとえを次から次と聴かせて、天の国を教えられました。

まず、天の国とは、からし種に似ているよ。と。それはどんな種よりも小さい。しかし「成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの大きさになる」(32節)とあります。

また三サトンの粉といえばそれは約三八キログラムの小麦粉なのですが、それが、僅かなパン種で「全体が膨らむ」(三三節)のです。すると、なんと九五庁もの大量のパンになる。豊かな恵みです。これもまた、パン種がないと膨らまない。その僅かなパン種に天の国は似ている。

ここでは小さいとか、僅かということに注目させています。僅かだが隠された力によって豊かさを生む。この驚くべき変貌の世界が天の国に似ている。君たちも手にあるものは僅かだろう。しかしそこには豊かさが隠されているのだ。

さらに警えの中心はその僅かなものの価値へと向かいます。天の国は「持ち物をすっかり売り払って」(四四節、四六節)でも手に入れたい「宝」だ。あるいはまた、一つの高価な真珠を発見するのに似ていると。つまり、天の国の価値は、何をもってしても得るべき価値があるものだと告げられます。

イエスさまに従うことに不安がよぎる弟子たちにとって、あぁ、この道はそんなに価値ある道なのかと思ったでしょう。

でも、そうはおっしゃいますが、今、持っているのは、何よりも小さなからし種や。僅かなパン種。すべてを売り払っても何も手に入らないほどの所持品しかありません。それしかないのです。手にある僅かを見て、どうしたらよいのでしょう。

さて、イエスさまがおっしゃりたいのは、隠されているということなのです。

さらに今度は五つ目のたとえです。これは逆の方向、ら語り掛けます。天の国は網によって湖の深いとこっからいろいろな魚を引き上げるその網に似ていると。

神が網をなげ、神が網いっぱいに魚を捕らえます。つまり、私たちが手に入れるのではなく、私たちは上に寄って捕らえられる側の者なのです。

そして描かれるのは、人々が網から魚を選り分ける有様です。現実に魚を獲ったらそうするように、神があなたをより理由、良い物として器に収めるよ、ということです。一方で捨てられる魚のことが出ますが、これは「彼ら」の話です。つまり採り上げられて良い器に収められる恵みを強調するための物言いです。主に従う者は神に受け入れられ、大切にされるという譬えなのです。

とはいえ、私たちの眼の前は暗い海の底なのです。だから、今は待たねばなりません。しかし、天の国は私たちを捕まえ、やがて引き上げられるなら、良いものとしてきちんと器に入れられるのです。

迫害が厳しかったマタイの教会の信徒たちは、その実の中でこれを聞いたのだと思われます。「良いもの器に入れられる」(四八節)そのことを自分たちへの葉として大いに喜んだでしょう。それと同じように私たちも自分が良い者として器に入れられるとい望を抱いて良いのです。

私たちはどうも否定的に見てしまいがち。思いがけぬ苦労に見舞われることがありますから。だが、良いものとして器に入れられるその希望を持って良いのです。

ちゃんと器に集められる。本日の第二日課ローマの言徒への手紙にありました。「神が味方」(ローマ八章三一節)なのです。

成長した大きな木やたくさんのパン、そしてあらゆるものの価値を超えた価値を持つ天の国は、今、あなたの手にあるのです。僅かなものしか持っていないとつぶやくのではなく、まだ発見していないと嘆くのでもなく、神が見せてくださる天の国がその僅かなものの中に隠れているのだよと、イエスさまは諭しておられ成長した大きな木やたくさんのパン、そしてあらゆものの価値を超えた価値を持つ天の国は、今、あたの手にあるのです。僅かなものしか持っていないしぶやくのではなく、まだ発見していないと嘆くのでなく、神が見せてくださる天の国がその僅かなもの子に隠れているのだよと、イエスさまは諭しておられます。

その僅かの中で神は近くなるでしょう。少ないから神の助けが迫ってくるでしょう。多く持っていたり、山持っているところでは見失っていたことなのです。隠されている宝を知る鍵は「信じる」ことです。しかも少ないから信じることへと向かえます。それによって神が味方であることが見えるでしょう。

イエスさまが、弟子たちに「分かったか」(五一節)と尋ねると、弟子たちは明確に「分かりました」(五一節)と答えました。「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか」(ローマ八章三一節)。現実が僅かだからじる者になることができます。今、手にある多さではないのですね。神さまが味方だということを諦めません、そこに立てたのです。

それは「新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている」(五二節)、とあります。つまり、神と共に歩む恵みを信じる者は、まことの自由に至ります。新しい物は新しい物として、古い物は古い物として、自由に取り出し、対処できる。すなわち落ち着いて自分の人生を生きられるということです。

なぜなら、本日の第二日課、ローマの言徒への手紙「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができるでしょうか」(三五節)。できないと言っています。この仰が見いだすキリストの愛から全てを受け止められるからです。福音という網に捕らえられて味方である神さまの息づかいを知っているのです。神の愛は人を見捨てることはありません。

神の愛から引き離されないなら、それは「勝って余りあ」(三七節)ると言えます。重荷や、悲しみを抱えても、いや、たとえ死の淵が襲ってきたとしても、その死の淵にも神の愛によって、神と共に生き生きと、この与えられた命を生きられます。

十字架と復活の主は語ります。神はあなたの人生を勝たせている。そしてその宝は今倍じることであなたの手のひらに与えられるから、大丈夫だから、その宝を抱いて喜んで生きなさい。

冒頭のS兄弟も、礼拝に今一度出たかったのです。通い馴れたこの礼拝堂で御前に座り、仲間と共にあってじる心を励まされたかった。そこに特別な力が働てくださったので果たせました。今のあなたには分,らないかもしれないけれど、小さく、苦しいばかり思うかもしれないけれど、そんなことはない。じ者の人生は勝って余りあるのです。クリスチャンはいねえとこの世の人からあきれられるくらいの価値ある宝が、信じる心に隠されています。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、4わたしたちは知っています」(ローマ八章二八節)。

今は僅かと思う日々かもしれません。しかし、この僅かな人生も神の愛の計らいの御手に入れられた、豊かな恵みに満ちた人生なのです。からし種一粒ほどの信仰ですが、むしろその僅かを感謝しましょう。信じることで、神の愛のご計画が、私たちの人生の隅々にまであることが見えます。その発見こそ信仰がもたらす豊かさです。僅かは豊かなのです。

望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。

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