15「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。19また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章15ー20節)
フィリポ月間に互いに集められたことを感謝いたします。
さて今日は、ユダヤのある民話からお話ししましょう。 こういうものです。人はみな、一本のひもで神さまとつながっています、と始まります。このひもは、私たちが罪を犯すと切れ、私たちが後悔すると、神さまがそこに結び目を作て、罪びとは、だんだん神さまに近くなっていきます。ですから、だれでも、あやまちと悔い改めの結び目をつづりながら、神さまに近づいていくのですよ。というもの。
だったら何度でも罪に走ってやろうか、というようなよこしまな考えは止めましょう。そんな思いで近づいた時、神さまはいったいどんな顔つきをされているでしょう。怖くもあり、あるいは逆に、それでも迎えて下さるのかもしれません。
一方、自分の罪を思う者にとっては、たいへん有り難い話で、ひもを結び直してくださる神の赦しの心が沁みてきます。神さまの愛の深さと確かさです。今日の第一日課エゼキエルにあった、「むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ」(三三章一一節)という神の御心です。
私たちは神を見失っては神に導かれ、離れては捉えられてゆく者だと思わせられます。有り難いことです。ルターの「大胆に罪を犯せ」という言葉も響いてきます。自分の罪深さを認めたうえで、キリストの赦しに大胆に身を委ねよと。
今日の箇所は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。」(一五節)と始まります。あなたとある人とのひもが切られたことです。傷つけられたあなたがいるでしょう。損害も与えられたかもしれません。しかし、そのときあなたは、二人だけのところでとがめなさいというのです。いわば、ひもを結び直すということです。
「罪を犯した」とありますが、命を脅かすような深刻な罪も考えられます。経済的なことかもしれません。あるいは、ある言葉であなたが傷つけられたということであるかも知れない。
いずれにしても、あなたから結び直そうとせよと。
あれっと思うのは、罪を犯された者が立ち働くことです。傷を受けた者が加害の者を招いてゆく。ここすごいです。もし傷ついたら当分会いたくないと思うものでしょう。なかったことにして忘れようとします。あるいは仕返しを考えるかもしれないし、即、損害賠償の請求書を送りつけるかもしれません。
ところが、まったく違うのです。傷を負いながらも対話しようとします。さらに傷つくかもしれないのに、だが恐れず向き合うことをする。どうしてここまでせよとおっしゃるのでしょう。
「聞き入れたらきょうだいを得たことになる」(一五節)。
兄弟姉妹のつながりを切ってはならないというのです。今日の箇所を覆っているのはこの熱意です。聞き入れなければ、さらに一人か二人一緒に連れて行きなさい。それでも聞き入れなければ教会に申し出る。教会の言うことも聞き入れないなら、そこでその人を異邦人か徴税人同様とみなせ。つまり、神さまに預けなさいということです。丁寧に段階を踏んで、あきらめない。ということは、なんとか聞き入れてほしいということです。ひもを結び直す熱意と言いますか、神の深い愛に倣いなさいと。
直前の箇所に、迷い出た一匹の羊を探し出す譬えがあります。飼い主は、九九匹を置いてでも迷った一匹を探すというのです。飼い主のいのちへの熱意です。探しても簡単に見つかるものではないでしょう。けれど見つかるまで探す。同じように、あなたも、あきらめずに、聞き入れてもらうことを求めなさい。それが御心だから。とそう言っています。
では、実際には私たちはどういう心を求められているのでしょう。
冒頭の民話に出て来た神の心のように、その人とのひもを結び直そうとすることです。つまり、神さまの御心をあなたがたが果たせと。和解に生きなさいということです。
ここに「とがめる」とあります。この、とがめる。他の翻訳では諭せとか、意見せよもあります。新共同訳では忠告しなさいでした。このとがめるという言葉は、日本語では責めるイメージがあります。悪かったところを指摘するような。ですが実は「光のもとに連れてゆき、光にさらす」という意味がある言葉なのです。神さまの光にさらすことなのですね。
このとき、神さまの赦しのところへ一緒に行こう、と諭すことです。そうやって、共に神の光に帰り着くことです。
そこで大事なのは、自分も探し出され、やっと帰り着くことができた放蕩息子・娘だという心でしょう。赦された歓びは実に尽きない歓びなのだと知っている者として、そんな私と一緒に神さまの赦しのもとへ行こうとすることです。そうやって父の懐の温かさへ一緒に入ってゆくのです。
このところ「罪」のことで思うのです。罪、罪と教会では言い、そうとしか言い様がないので言うわけですが、しかしこれは、責めたりしているのではないです。もっとピンとくる言葉を探しています。哀しみも近い。
その点、今日の「とがめる」が本来は光のもとへ連れてゆくことだというように、罪とは心のあかりを失った状態なのかと教えられます。心にあかりがなければ、本当のことが分からない、暗くて真理が見えないからです。神が見えない、自分が見えない。すると自我や欲がうずき、自己中心となります。そこから人を傷つけることも生まれるでしょう。罪とは光がないことだ。
実は仏教でも「無明」という言葉があるそうで、むは無しの「む」、「みょう」は明かりです。その無明が迷いを生み、執着、怒り、恐れ、不安を生むと。
これ、まさに「罪」のことを言っているようではないですか。仏教にとって、そこを破るのは、知恵を得ること、執着を無くすこと、無常を学ぶことだそうです。そうやって「悟る」ことで、無明を突破しようとします。 その点、キリスト信仰は神の光を受け取ろることなのです。暗いのなら、神の光に照らされなさいと。あちらから差し込む光なのです。そういえば創世記の初め、神が最初に告げたのは「光あれ」(一章三節)でした。混沌であった世界に光あれと告げられた。そこで光があった。そしてキリストは「私は世の光である」(ヨハネ八章一二節)とおっしゃった。人は本来、闇です。光がないので自分を追い求める。自己中心となる。つまり神から離れる。これが罪です。
だから、聖書は、悪い者の犯すことを罪と言うのではなく、結果としてそれをもたらすかもしれませんが、自己中心となり、神から離れる、そこで光がない。それが罪だとします。思い当たりませんか。
イエスさまは、神さまのこの神の光によって、本当のことが見えてくる私たちを取り戻すために、やってこられました。そのために神の子羊として十字架にかかられました。
ひもを結び直すのは苦労です。いざ相手のところへ向かっても、かえって自分がさらに傷つくかもしれないのです。それでも行きなさいとおっしゃる。そう告げるかたご自身は神の結び直しの現れで、それを果たそうとしたら、十字架にかけられました。十字架は私たち人間の罪の深さが現れると共に、それでも愛そうとされる神の愛の深さが浮かび上がるところです。この神の光は闇を追いやるのです。
しかし、聞き入れない者は多いのです。今日の箇所で繰り返し言われるのは、「聞き入れないなら」(一六、一七節)です。
聞き入れない者がいるのです。もし聞き入れないなら、それは結ぶことになります。結ぶとは、閉じることです。解くとは開くこと。ですから私たちが罪につないで扉を閉じたら、神の国に入れない。逆に私たちが罪から解いて、扉を開いたなら、神の国に入れるというのです。責任重大です。
でも、それは私たちだけの判断ではない。それを祈る輪の中にはイエスさまがおられるということです。今日の箇所すべてを二〇節の「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。このみことばが覆っています。つまり、二人三人で祈りなさいと言うことです。二人三人と集うところ、そこに主がいましたもう。悔い改めと赦しに集う教会は、罪によって負った傷をも癒やす力を持っています。
「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ一三章一四節)とありました。
今、ひもの結び直しをしなければと思っているかた、赦しがたいことに直面しているかた、どうか、心に主イエスを着ることにしましょう。主は赦すために来られました。その赦される歓びを人と分かち合うために私たちがいるのです。和解に生き、ひもを結び直そうとする苦労に生きようではありませんか。どのようになろうとも、イエスさまがあかりとして共に生きてくださいます。
望みの神が、信仰から来る あらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを 望みにあふれさせてくださるように。 アーメン。

コメント