2026年10月4日「真実への帰り道」

33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た。34収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫のところへ送った。35ところが、農夫たちはその僕たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36また、前よりも多くの僕たちを送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。37そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38農夫たちはその息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう。』39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません。」42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった。これは主がなさったことで私たちの目には不思議なこと。』43だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される。」45祭司長たちとファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。(マタイによる福音書:21章 33〜46節)

今日のたとえからは、神の愛を無にしていないかとの声が聞こえてきます。と同時に神の愛に応えなさいという招きが聞こえます。

イザヤは預言しました。「私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに、どうして酸っぱいぶどうが実ったのか」(五章四節)。「主は公正を待ち望んだのに、そこには、流血」(七節)「正義を待ち望んだのに、そこには、叫び」(同)。神はイスラエルの民に何度も言って聞かせたのでした。私に立ち帰れ、帰って来いと。しかし、何度言っても聞かない、それがイスラエルの歴史でした。

神のお考えと人間の考えとがあまりに違うわけです。しかしそれはイスラエルばかりではなく、世界のありさまをみれば愛の支配を離れ、力による支配と暴力がさまざまな所にあります。世界各地の戦争・紛争はもちろん、私たちの身近なところでも、力の支配はひたひたと迫ってきているように思います。神の愛に応えて生きる私たちの心が今こそ求められています。

今日のたとえは、たとえであると共にかなり現実を暗示している生々しいたとえです。実際に、このあとほどなく、主イエスはぶどう園の外に放り出され、殺されてしまいます。十字架です。その殺す者たちがこの譬えを聞いているわけです。

今日のたとえでは、主人がすっかりぶどう園を準備し、農夫たちに貸して出かけたところから始まります。

さて収穫の時、主人は僕を送りますが、農夫たちは収穫を僕に渡しません。渡さないどころか、僕を捕まえ、痛めつけ、しまいには殺してしまう始末。そこで、ぶどう園の主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」(三七節)と言い、最後の希望として、自分の息子を送ったのでした。だが、さて、その息子は、ぶどう園の外にほうり出され、殺されたとなります。

ひどい話です。農夫たちの横暴が目に余ります。聞いている当の祭司長たちでさえ、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません」(四一節)と答えるほどです。ずいぶん皮肉が効いていますが。

聖書が示す私たちの罪の姿とは、三八節「さあ、殺して、その財産を手に入れよう」、この心に尽きます。この自分中心です。

そして、それはあなただ、と言われているのです。

そもそもで言えば、ぶどう園は主人のものです。そのことを農夫たちは忘れているようです。いや、忘れてはいないとしても、懸命に自分が頑張ってきた分、主人のことは眼中になくなってしまった。なぜ神に返さなければならないのか、私の努力で収穫を得たのだ。いつのまにかすり替わるのです。一生懸命努力した人ほど、自分の手から他へは手渡しません。私たち人間の努力だと思っている限り、返さないでしょう。しかし、そう思っている限り神の愛の支配を忘れ、自分たちの力の支配に向かうことになります。力で自分のものにする世界です。

この勘違いに気付きなさいと言われています。偶然にできた世界と人生と思っているのだろうか。そうではないと思い起こせ。人生の一つ一つが与えられ、助けられてきたと思えることが、実は尊いことです。おかげで助けられている。神さまのおかげとする観点が人を救います。そう捉えないなら悲惨しかありません。

収穫を返すとは、どういうことと思われますか。つまり、その意味は、主人を主人とすることでしょう。神を神とすること。神に感謝することです。その愛の権威を尊ぶことです。この心に生きてほしいのです。神に返して、そして与えられるのですから。世にある横暴な地主のように、農民が困り果てるまで吸い上げる、そんな主人ではありません。聖書の主人は、納めたら、その何倍も与えてくれる神なのです。

イザヤ書が歌うのは、ぶどう畑の愛の歌なのでした。神の愛に生きてほしいと。

だが、その愛の歌はいつしか遠い声となり、農夫たちは自分自身の考えや自由を握りしめます。それはまさに、家を建てる者が、これは必要な石だ、あれは必要のない石といって自分で判断する姿に通じます。家を建てる技術としては必要なことなのでしょうが、しかし、神の観点ではむしろ、重要なことを見落としているのです。

神の観点は別のところにありました。あなたがたが捨てた石が隅の親石となった。家の中央で輝く石です。まるで逆であって、私たちの目には不思議なこと。

どこまで、人の観点と考えを捨てて、神の息子を敬えるか。ここにかかっていると聖書は告げます。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちてきた者は、押し潰される」(四四節)。どうあっても、この石次第なのです。命がかかっている。

私たちは、自分にとって必要ではないと思って石を捨ててきませんでしたか。困難、みすぼらしさ、辛さ、思うようにいかないこと。それらを避けるために捨ててきた石があった。そして気に入る石を集めました。

祭司長や長老たちにとって、この時のイエスさまは、自分たちの考えに合わない存在です。自分たちは立派に神を信じ、立派に律法を遂行し、欠けたところはないと言わんばかりです。神さまに認められることを自前で作り上げ、自分で自分を認めています。神に立ち帰れと告げる、みすぼらしいおまえイエスは、一体何なのだと思っていた。そして捨てると決めたのです。

ですが、そのような勝手に捨てる人間をも、神は赦そうとしておられるのです。それはここに示されます。僕が殺された時点で軍を送り込み、農夫たちを滅ぼしてもよさそうなものなのに、主人はそれをしません。じれったいほど何度も呼びかける。つまりここに赦そうとする神の決意が溢れているのです。そんな主人、そんな神である。不思議であり、感謝です。「私の息子なら敬ってくれるだろう」(三七節)、これが神さまの最後の望みでした。捨てた石が救いの石だと気づきなさい。神が私たちに望むのは、主イエスを救いの石とし て改めていま、愛すること。

教会はイエスさまを敬うところです。そこに神の国がある。いま教会に帰ってきていることを感謝します。

本日は、センター教会が日本語で福音を告げ始めて七五年の記念の礼拝です。それは尽きない喜びです。ですが、その歩みを、今日与えられた福音に重ねるなら、一旦捨てた石をもう一度真ん中に据える、そういう悔い改めの歳月だったと言えましょう。

ぶどう園は御国にふさわしい民に与えられる。その民の端につらなる私たちの教会。赦された七五年なのです。

教会は十字架の恵みを信じるところです。十字架をどう受け入れるか。苦しみや辛さをどう受け入れるか。捨てたいと思ったその石を中心の大切な石としているだろうか。神はそうした。その神の愛を知っているだろうか。神の恵みと平和を知っているだろうか。

イスラエルはイエス・キリストという石につまずきました。そしてその石を捨てた。だが同じイスラエルでありながら、パウロはまるで逆の観点をいただいたのです。つまり、これまでの自分の功績はキリストのゆえに損失だとしています。キリストのゆえにそれらを失ったが、だがそれらを屑とみなしている、とした。今、キリストの真実による義にたどり着いていると。キリストの真実へ帰り着いた、この上ない喜びを告げます。

喜びが奪われることが人生の折々で起こるでしょう。冷たい風が吹き、みじめな境遇に立ち至ることもあるのです。しかしその時、十字架にかけられ、殺された主イエスだけが、よく帰って来たねと私たちを包み込んでくださいます。真実へ帰り着いたのです。そこで私たちは、しみじみとさらに深く喜びの涙を流すことでしょう。

私たちも、この十字架という隅の親石が自分の人生の親石なのだと受け入れ信頼することが求められています。

イエスさまは、あなたにこんな石は要らないと言って捨てられたことを、すでに赦しています。ああ、そうだったと、もう一度捨てた石を手に取ることを願っています。そこからしか新しい人生は始まらない。そこからしか、真実で自由な人生を歩むことはないのです。

だから今、キリストという真実への帰り道を歩みましょう。ひとり息子イエス・キリストの存在は、主人が農夫をどれだけ愛しているかの証拠であり、農夫が回心して主人に愛を示す頂点なのです。この愛に帰って来い、と、神はおっしゃっている。この真実は決して私たちを裏切りません。

主イエスを愛することがあなたを救います。

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