21この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。25自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。26たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、その時、それぞれの行いに応じて報いるのである。28よく言っておく。ここに立っている人々の中には、人の子が御国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マタイによる福音書 16章2一28節)
先週は沖縄での黙想会のことに触れました。お祈りの中で「あなたを引き受けた」との御声を示されたことで、主の憐れみに気づかされた驚きと喜びをお分かちしました。
今日の箇所は先週の箇所のつながりにありますが、その意味で、引き受けたということがいったい「何」を引き受けたことなのか、それをはっきりさせています。つまり、あなたを罪ごと引き受ける、という主の御心を聴く思いなのです。罪が引き受けられること、それを見失ってはならない。
先週、弟子のペトロはイエスさまのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」(一六節)と答えました。その時、主はこう言われました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ」(一七節)と。なぜなら、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(同)とおっしゃった。
神が働いてくださるあなたの人生は幸いだということです。ところが、ペトロは告白のその舌の根も乾かぬうちに、今日、主イエスをいさめ始めたのです。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(二二節)と。なぜなら、イエスさまがご自身の十字架への道、受難の道のりを話し始めたからでした。
こうあります。「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(二一節)とそう話し始めたのです。確かに復活も告げられていますが、そこは受難があまりにも衝撃的で、弟子達の耳に入っていません。
ペトロの中には失望が生まれたでしょう。せっかくの救い主なのに殺されるのですか? と。メシアが苦しみ、十字架に殺されてどうするのですか? ましてや大切な主の死などとは耐えられません。到底受け入れられない、となります。
だからイエスさまを脇へお連れしていさめ始めた。
私たち人間とはきわどい者です。神の働きによってメシア告白をしたその口が、主イエスの苦難を知らされた途端、それはあってはならないと自分の考えを前面に出すのです。自分が納得できるかできないかが優先されます。愛からであろうとも、自分の人生の都合からであろうとも。
ですから、イエスさまはペトロを叱責された。「サタン、引き下がれ」(二三節)と。「神のことを思わず、人のことを思っている」(同)と。まさに今日は、このみことばが問題です。「神のことを思わず、人のことを思っている」。主イエスは、ペトロが救い主を自分の考えで捉えていると指摘します。
ペトロにとって、あるいは私たちにとっても、救い主キリストとは、「栄光」のかたと描くでしょう。民族の解放を期待できるとか、自分自身の人生に豊かさを実現してくださるとか。病気がなおり、仕事がうまく行き、その良き事に触れて、私の人生が織りなされ、成就されてゆく。そこへ導くのが救い主でしょと思っているふしがあります。そうでなきゃ委ねる意味も信じる意味もないでしょうと。
だからペトロは、いさめました。
しかし、イエスさまご自身が導かれてゆく道は「受難」への道なのでした。神は御子の受難によって救いを果たそうとされている。
主イエスは罪にある人の救いを問題にしています。ことは罪の問題なのです。人間のどうしようもない罪の深み、自己中心性、それを主が負おうとすれば、主の苦難につながってゆく。
こうなると私たちが自分の罪をどう捉えているかということになります。罪とは真実が見えていないことだと思います。つまり、心にあかりがないのです。だから見えない。その悲しみ。そして魂の空しさ。だから自分を追い求める。だが、そうしたところで、満たされない。いっそう自己中心となる。心にあかりがないのです。
ペトロよ、あなたは自分を知らない。自分にとって本当に重要なことは何なのか。罪をどうするのか。心に、あかりはともっているのか。
全世界を手に入れたとして、自分の命を失ったら、何の得があるのか。自分の罪が解決しなければ、手に持っているあまたのものは何の意味があるのだろうか。人は自分の力で自分の命を買い戻すということは、できはしないのだ。それができるのは、私が十字架に殺されていくことによってである。神の子が人の罪を一心に引き受けることによってしか、神の赦しは生まれない。
長老、祭司長、律法学者たちは、自分が正しいと思っているのです。正しい自分たちがすでに赦されているとしている。その罪が極まって主の十字架の死となります。人が自分で正しいと思う罪、虚しさを自分で埋めようとするその傲慢が暴かれる時、逆に、神の慈しみがそこに現れます。
つまり、人に拒絶されて殺されても、このかたは拒絶しない。この苦しみを通して、神のご意思を果たしてくださる。それが十字架の恵みです。
人はそれぞれに幸いな人生であったり、苦労の人生であったりするでしょう。しかし、どんな幸福な人生を歩んでも、はたまたどんな不幸と思える人生を歩んでも、その人のまことの救いは、神に罪赦され、神に受け入れられるかどうか、この一点なのです。
だから、神がいま主キリストの苦難をもって救いを果たそうとしているのだから、人間の考えでそれを止めてはならない。むしろ、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(二四節)。
私たちは、自分の思いと立場を中心にして、いかに生きるか、そのいかにが果たされるかどうかを幸せの尺度と思っているでしょう。その意味では自分の考えや計画を捨てるというのは苦しいことです。自分自身が無くなってしまうではないかと心配にもなる。しかしこの言葉の意味は、神のお考えを第一とするということです。自分の思い通りにならないことを受け入れるということです。この道こそ、自分の思いと立場に縛られない解放された道なのです。そしてかえって、思いがけない希望を与えられる。
毎朝聞くラジオ番組で、先日運動会についての街頭インタビューがありました。子どもの頃、運動会好きでしたか嫌いでしたか? 大好きだったという人もいれば、もちろん大嫌いだったという人もいる。その中である男性は、こんなことを話しました。足が遅くていつもびりだったそうです。なので、小三か四年の時、一計を案じました。本番の運動会の前に予め組み合わせを決める五〇メートル走があったそうです。そこでわざと遅めに走るのです。そうすれば組み合わせは遅い連中と走ることになる。考えましたね。
そして本番の走りです。まんまとダントツでトップになりました。みんな見てます。それがいかにもあからさますぎて、恥ずかしい。申し訳ないという気持ちになった。少しも嬉しくない。一位になりたくてずるをした。その苦い思いを味わって、そこで彼は心に決めたのだそうです。もうインチキはやめようと。ずっとその思いでこれまで生きてるって、おそらく中年であろうその男性が話していました。まっすぐ生きたのだろうなと想像させる誠実な声でした。
これ、自分を捨て、自分の十字架、つまり自分の罪、そのままの自分を受け入れて行くということに気づいたことだと思いました。インチキをしようとする自分がいるのです。どうしようもなく。
こういうことってあるなあと思わせられます。人は自分の考えに走ります。自分中心に生きようとする。けれど違うなあと思わせられます。自分が一番になることじゃない。彼は良心に立ち帰り、人生のあかりをいただいた。悔いるというのは大事ですね。そこから新しくなります。
主がもたらす救いとは、自分が死んで、そして新しい自分が生かされる解放の道です。なぜなら、今の自分を苦しめているのは、他ならない自分の罪だからです。空しいからあがく。あがいて中をつかんでさらに虚しく、自分を神としてしまう。実はいっそう苦しい。主は、私たちの人生をご自分の十字架の苦しみで引き受けられました。自分の罪を認める平安に私たちを生かすために。罪ごと引き受けたのです。
このイエスさまの揺るがぬ歩みによって、いのちへ至る道がこじ開けられてゆきます。あなたを罪ごと引き受けるから。自分の考え優先を捨て、罪の自分を受け入れなさい。それが十字架を負うこと。そして、イエスさまのその歩みに従いなさい。その時、その苦難はまことのいのちへの道となって、あなたを導きます。 望みの神が、信仰から来る あらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを 望みにあふれさせてくださるように。 アーメン

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