2026年7月19日「すぐに決めない愛」

マタイによる福音書 13章24〜30節、36〜43節

24イエスは、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実を結ぶと、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、妻まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。』」
36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちが御もとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り取る者は天使たちである。40毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。41人の子は天たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行者たちとを御国から集めて、42 燃え盛る炉に投げ入れ彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。43の時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

今日のたとえは、天の国のたとえです。先週に続いてのものです。天の国は良い種を蒔く人に似ていと始まります。つまり、天の国とは、この種を蒔く・この主人の心のようだと。

ではどんな心か。その人は良い麦の種を畑に蒔きました。おそらく農家のかたたちがそうであるように、順当に育つことを願って実り多い麦畑を思い描いて

蒔いたのでしょう。ところが敵が来るのです。人々の知らぬ間に敵は畑に毒麦を蒔きました。

やがて麦も毒麦も成長します。成長すると毒麦であることが分かってきます。僕たちはどうしてこうなったかと、慌てているふうです。そして、「行って抜き集めておきましょうか」(二八節)と主人に告げる。しかしそこでこの主人は、そのままにしておくよう指示します。なぜなら、「毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない」(二九節)と言った。つまり、この主人は、毒麦を抜かない人として描かれています。この心、そしてふるまいが天の国に似ているというわけです。

大丈夫だ、ということです。君たちは毒麦の登場に慌てているようだが、畑は大丈夫なのだ。この安定感、畑への肯定感が聞こえてきます。慌てて抜くな。すべては大丈夫なのだと。

天の国とはそもそも良い麦が蒔かれたところ。そこに毒麦が現れると、普通抜こうとするでしょう。だが、この主人は毒麦にも慌てず、敵がずる賢い方法をとってもたじろがず、どこまでも見守り、本当の良い麦の成長を実現させようとしています。やがてくる全てが明らかになるその時まで、神は抜き捨てないということです。大丈夫なのです。天の国は揺るがない。

慌てない主人がここにいます。それは最終的な力を持っているからです。そして、ただ力を持っているだけでなく、世界を肯定しています。愛しています。踏み込んで聴き取るとすれば、ここで毒麦さえも受け入れているようにも聞こえるのです。すぐに決めない神の愛です。

良い麦も毒麦も混在した畑となりましたが、この畑の様子はまさに私たち人間自身であり、そして世界だとみてとれます。

イエスさまのこのとき、福音宣教がふるいません。不振です。当然弟子達も不安だったのです。私たちも、教会のこと、信仰のことを考えると今後への不安がよぎりませんか。

ファリサイ派や律法学者は自分たちこそ良い麦と思っていました。ですから、イエスさまの福音宣教を受け入れません。主イエスは九章一三節で「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とはっきりおっしゃっています。ファリサイ派にしてみれば、それが気に入らない。自分たちがいわば良い麦で、イエスさまと弟子たち、つまり罪人たちは良い麦の中に蒔かれた悪魔からの毒麦と見ていた。その毒麦を一刻も早く抜き取れとファリサイ派や律法学者は考えていたわけです。

一方、弟子たちも、その現実に恐れを成しつつ、しかし主よ、あの攻撃してくる連中をやっつけたらよいではないですか。あの連中こそ、抜き取ればよいのにと思ったのです。

そんなとき、主は、今日のこの毒麦のたとえを告げました。

毒麦を「行って抜き集めておきましょうか」、この言葉はファリサイ派が抱き、そして弟子たちも抱いた言葉でもあるのです。つまり人は、自分にとって違う相手、思うようにゆかない相手は抜いてしまおうと思うものです。それが人であっても、あるいは、出来事であっても。そう言いたがらないでしょうか。抜いたらス

ッキリするのにと。

しかし神のみ旨は、抜かない、ということなのだと教えられるのです。抜かないということが、実は、主人にとって蒔かれた良い麦を大切にするということにつながるからです。

だから、決定的な時がくるまで、決めつけてしまわない。神はそうするよ。大丈夫だから抜かないでおけ。神の忍耐に信頼し喜んでいなさい。

あのパウロ。毒麦退治の急先鋒でした。ユダヤ教のファリサイ派としてキリスト者を迫害していました。けれど復活の主に出会い一八〇度変えられ、なんとイエスさまの福音を伝道する者となりました。以後、パウロはユダヤ教からもキリストの教会からもしばらく受け入れられない難しく苦しい伝道を強いられました。

その途上、パウロはニコリント一二章七節で「私の体に一つの棘が与えられました」と言っています。パウロの理解では「サタンから送られた使い」(七節)と言っています。この棘は病気か、はたまた迫害の苦しみか、あるいは身体的な障害かと、さまざまな解釈がありますが、いずれにしてもパウロにとっては大きな妨げです。今日の毒麦ではないですが、この棘さえなければ、もっと大胆に効果的に伝道できますと、祈った。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(八節)。毒麦を抜いてくださいということです。しかし主の御声は、九節「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と告げました。パウロの考えと主イエスの心とは違うのです。取り去って欲しいと思っているものがかえって生かされると。そこでパウロは「キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(九節)という心に至りました。認めがたいものを認める時、そこに新しい命が生まれる。考えさせられ、私たち自身の回心の必要を思います。

自分に毒麦はいらないと言いたがるな。それより、抜かないでおけ、神さまの忍耐に信頼して喜びなさい。

をしているのか分からないのです。」(二三章三四節)-おっしゃった。神はこの回心を育むのです。

御子主イエス・キリストは忍んで十字架にかかられました。いわば毒麦のような私たち人間に陥れられ、さげすまれ、ばかにされながら、しかし一切を神さまにゆだねて十字架に死んだのです。しかも十字架の上で、ルカによれば「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか分からないのです。」(23章34節)とおっしゃった。

それは自分たちが神に蒔かれた良い麦であること気づいてほしいのです。いつか良い麦としての忍耐・生き始めてほしいと思うからです。

今日悟りたいのは、私たちは神によって蒔かれたい麦だということです。しかし私たちの中にも、世界にも毒麦が蒔かれた。抜こうとするだろう。しかしその毒麦故に主イエスは十字架で殺された。毒麦が蒔かれていなければ、あの十字架の恵みは意味をなしてはいません。神がすぐに決めつけない愛をお持ちなので、神は人に仕えてくださったのです。

ですから「刈り入れまで、両方育つままにしておきなさい」(三〇節)というのは、神の忍耐であり、愛にほかならない。そしてこの愛が主の十字架を与えてくださいました。毒麦があるので、良い麦への回心があり、主の十字架の恵みを受け取れます。

私たちはこの方の手によって守られようとしている良い麦なのです。

良い種を蒔く者は人の子、と37節にあります。イエスさまです。イエス様に蒔かれるとはどういうことでしょう。それは、洗礼です。洗礼を受け、主イエスの忍耐と愛によって、それぞれの場所に新しく植えられるのです。それが、私たちが主によって蒔かれた良い種となる時です。そこから、思い通りにならないことを抜き捨てることなく、忍耐して、すべてを受け取って生きるなら、やがて良い種は本来の良い麦の実りをもたらします。

今、自らの心の畑を見回してみましょう。毒麦もあるだろう。雑多に成長している植物があり、まとまってもいない。ごちゃまぜの畑で、しかし命に満ちている。天の国は、良い麦の純粋培養ではありません。毒麦と共存しながら、右に揺れ、左に揺れ、やがて神がは望まれる本来の麦の命を獲得してゆきます。主イエスの十字架ゆえにです。私たちの有様をすぐに決め付けない愛が私たちを支えてくださっています。この限りやがて終わりの時、神は、豊かだったあなたの人生を共に喜んでくれるでしょう。丁寧に収穫をより分けて、共に喜ぶ。そしてはっきりと分かってきた雑草や余計なものは刈り取られ、集められて燃やされる。それは認めようとしなかったあなた。倍じようとしなかったあなた。神に敵対したあなた。それらは今こそ抜き取られ、主イエスの十字架によって神に確かに認められたあなたのいのちだけが残り、「太陽のように輝く」(四三節)のだ。このときまで神はどれほどか忍耐されただろうか。

だから今、忍耐される神がそうしたように、私たちも忍耐してこの畑を生きようではありませんか。すべては大丈夫なのです。

「耳のある者は聞きなさい」(13節)。

望みの神が、借仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次