マタイによる福音害
二八章一六節~二〇節
16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。7そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。Iだから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世のマタイ福音書の最後、「私は世の終わりまで、いつもあ終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
今日はマタイによる福音書の一番最後から聞きます。多くの場合、最後には全てを込めるでしょう。最後が肝心。
実は、今日は私の故郷である秩父から、甥っ子とその次女が来てくれています。彼女は今、私たちの教団傘下のミッションスクールに通っていますので、礼拝出席を学校に報告するわけです。ということで飯田橋まで来てくれました。お二人とも、歓迎します。
ところで故郷秩父には三四箇所の観音巡りがあって私は高校生の時、その全部を巡ってレポートを書いたものでした。重い自転車で、遠くの寺にはバスを使って巡った。その最後の寺三四番には石造りの足形があったと記憶します。そこを踏むと三四箇所全部の寺、それどころか、西国・板東それぞれ三三箇所と秩父三四箇所で、合わせて一〇〇箇所全部お参りした功徳が与えられるとされます。便利なものです。先に言ってよという話です。それが分かっていたらここだけ来るのにと。知恵ですね。一〇〇箇所回りたくても体の事情やお金の事情で行けません、とする方達には朗報だったわけです。仏の慈悲でしょうか。
つまり最後には全てがある。
マタイ福音書の最後、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二〇節)です。神の愛はどこまでもあなたと共にある、という約束をマタイはひたすらに伝えたかった。というのも、福音書の始まりにも、マタイは主が共にいることを描いています。イエスさま誕生のくだりです。
婚約者のマリアがいいなずけのヨセフのあずかり知らぬところで聖霊によって身ごもりました。ですから、ヨセフは密かに離縁しようとしました。正しいヨセフですから律法に反することをそのまま通すことはできない。かといって表沙汰にしたならばマリアは命がない。密かに離縁。ヨセフらしさです。そこに主の天使が現れて、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である。」(マタイ一章二三節)と告げたのです。
つまり生まれる子は神われらと共におられる、を示す存在だ。インマヌエルそのものだと。だからマリアを迎え入れよと言うわけです。そして目覚めたヨセフの理不尽に苦しむ私たちを助け出すのが神だろうに。
ヨセフはそのとおりマリアを迎え入れました。自分の考えを捨てたのでした。
マタイ福音書は一貫して共にある神を伝えます。それは、あなたを一人にはしないという神の愛が言わせている言葉です。
ここで生まれる新しい生き方とは、どんな生き方でしょうか。主が私と共に生きてくださるのですから、きっと、すべてが手に入ったり、力と恵みに満ちた万々歳の人生を約束されるのか。
そうではない。イエスさまを通して知り得る神は、失う神です。弱さの神です。十字架です。
というとがっかりしてしまうかもしれません。しかし、その真の意味は、神が愛だということです。つまりご自分は失い、そして相手が生きるのです。相手とはあなたです。あなたを生かすために神が失った。この愛があなたと共にあると告げます。
今日の弟子たちの中に、疑う者がいたという言葉は、面白く響きます。つまり、失った神が神なのだろうかと思ってしまう。これは私たちだと知らされます。十字架に無残に死んだかたが私たちと共にいるって、それを受け入れてよいものなのかどうか疑う。神というからには、全能で盤石で、決して十字架になどかからず、強いのが神だろうに。その全能によって、この世目の前のかたは、十字架に死んだかたなのだ。私たちの人生を解決してくれるのだろうか。これ普通に思います。信じてよいのだろうか、と信仰の苦悩があるはずです。
しかし、そんな私たちに、近寄ってくださる主イエスをマタイは記録しています。「イエスは近寄ってきて言われた」(一八節)うれしいですね。あちらから近寄ってくださるのです。信じている者に近寄るのではなく、信じようかどうしようかと疑っている者に近寄ってくださいます。思えば、弟子たちはイエスさまとは数年の付き合いです。そこに人生をかけてよいかどうか迷った。その際どさにいます。失っていく神に信頼できるのか。神さまの立場を捨てて、疑う弟子に近寄る、その愛に気づくでしょうか。私たちにとって救われたとか、もう一度歩き出してみるかと思えたこととか、それはどんな事によりますか。たいていそれは同伴者がいることだと言われます。つまり共にたたずんだり、共に歩いたり、共に泣いたり。決して押しつけない同伴者です。レッテルを貼りがちなこの世にあって、それをせず、私たちをそのままで共にいてくれる。友、兄弟姉妹、主。神、そううかたと出会えるとき、転機が訪れるでしょう。その解決を持つかた、すべてを満たすかたがあなたと共にあなたで良いと言われることは、存在の基を支えられた思いです。皆さんもそういうかたと出会ってきていると思います。もしまだ出会えていないなら、イエス・キリストがその方です。
私たち、自分はだめだなぁとか、人を傷つける自分に嫌気がさすとか、愛とはほど遠い自分の罪の悲しみが重いわけですが、しかし、主は、そういう者になお近寄って来て語りかけてくださるのです。私が共にいると。主が十字架に死なれ、すべてを失ったからこそ切り開くことのできた、命の地平です。そういう方だから、私たちと同じ所に立ってくださり、悲しみや辛さに一緒に立ってくださる。愛が沁みますね。
どんな私であっても、神われらと共にいます。いい子の私ばかりではありません。愛のない、神さまから離れようとするような私たちであっても、主は私たちと共にいてくださる、と主が近寄る。
なるほどこれは、神さまが主語となった愛の宣言にほかなりません。私たちがどうあれ、
神は離れない。
この命の根源に気づかされるなら、それまでと違う私たちの生き方が始まることとなります。それは自分を根拠としないという生き方です。「一切の権能を授かっている」(一八節)と今日、主イエスは告げておらいれます。そのかたに根拠を持つ生き方です。すべての生きる世界です。もし、これを受け入れるなら、主が希望となり、私たちは新しい生き方とされます。
聖書に登場する人物たちは皆、この神さまの解決にゆだね、人生を変えられていった者たちです。アブラハムもモーセも、マリアもヨセフも、要するにそれぞれの生きる根拠を神さまに持ったのです。「あなたおがおっしゃるなら」「主がそうおっしゃるから」と言って、それまでのように自分の考えを根拠にしては生きなくなった。
これは、なんと解放された生き方だろうかと思います。この世や自分によりどころを求めなくなるのです。「一切の権能を授かっている」、その一切とはすべてのすべてです。私たちの現実はここが解決したら、あちらが問題になったというような世界です。一向に解決はありません。ところが主イエスは一切の権能を持っておられる。最終的な最後的な拠り所がいつも私たちと一緒にいてくださるというのです。それは、たとえ私たちの事実に解決が見えなくても、神にはあるのです。私たちには解決しない悲しみも神さまの一切に委ねられる。最終地点の平安に委ねられる。これが弟子たちに与えられた約束の恵みです。
この生き方を、おそらく人は驚きをもって見つめるでしょう。自分を根拠としないで、なぜ生きられるのかと。
生きられるのです。いや、自分を根拠とするより、ほかのどんな力を根拠とするより、はるかに確かに生きられることか。すべてを失い、全てを得たかたを根拠とするからです。それは苦しみを受け入れる道を持つということです。辛さをごまかさず、それを負って生きょうと心が決まるのです。
すべての民をわたしの弟子にしなさい、と言われています。政治・経済・文化のさまざまに違う状況に生きる人間が、イエスさまの弟子という、神の愛と共なる生き方を生き始める。そのために働きなさいと。なぜなら、全ての人が、実はこの一切である方と共に歩む人生を求めているからです。それは裁かれない人生です。そして裁かない自分です。
ご自身を失う十字架の苦しみを神が経験され、続いて、復活のいのちをもって死を乗り越える愛を、御子を通して現わされました。さらにその愛を愛として受け止めることができるよう、聖霊を与えてくださっています。
父と子と聖霊の働きです。三位一体。
これは、なんとかして人に愛を示そうとされる神の御心の現れです。神さまがなんとかして、私たちの人生と世界が実は、本当は、神の愛に支えられていることを知らせようとされている、それが父と子と聖霊による愛への目覚めです。
福音とは、この神の愛が、終わりの日まで、どこまでも共にあることを確させてくれるものなのです。裁かれず、裁かず、レッテルを貼られず、貼らない、=コニコし合って生きる人生に招かれています。その仲間作りへ歩みだしなさいと言われています。
ここに共にあることを喜ぼう。
望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン。

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